『リミット』(『BURIED』)をみて〔感想文〕※ネタバレしています

このブログには“大分前〜すこし前”に関するものごとの記憶を辿って書こうかな、と思っているのですが、その基準からすると記憶が新鮮すぎる映画について書くことにします。
『リミット』はシネリーブル神戸にて観ました。
この映画館にはわりとよく行くので、本編が始まる前の予告で何度か見たり、館内に貼ってあるポスターを目にしていて、「上映がはじまったら観にいってみようか」と思っていたのです。

本編が始まってみると予告どおりの展開でした。

目覚めたら土の中。

…TVの探検ものなどで鍾乳洞探検などがあると、必ずといっていいほど狭くて狭くて人がようやっと通り抜けられるかどうか、というような隙間をいく場面がでてきます。
自分は小学生の頃に遠足で奈良の大仏殿にいって、柱の穴(大仏の鼻の穴と同じと言われたけど、そんなことはないと思う)を潜り抜ける体験をさせられて、そのとき「この狭い穴につっかえて出られなくなったらどうしよう」という恐怖でいっぱいになったものです。体がおおきめだったこともあって。
そんな「なんらかの空間から出られなくなる」恐怖が強い自分にはこれは耐え難い。

しかしカメラは動きません。
土の下の棺の中からカメラは出ない。
ああ苦しい。
ナレーションは入らず、主人公がかけた電話の相手との会話だけから主人公のシチュエーションがわかる構造になっています。
どうやら主人公は、イラクでドライバーをしているらしい(しかし軍には関係ない民間会社に雇われているらしい)。どうやら配送途中に襲われて、仲間はほぼ殺されたらしい。
電話で話しをするのは、FBI、自分の所属会社、家族・・・、そして自分をこんな棺にいれて閉じ込めた犯人。
その間にいろいろの困難をクリアしようとする汗まみれの主人公がクローズアップで映し出されています。
映画内の時間と現実の時間経過がほぼ同じ進行なので、主人公の息苦しさを強制的に共有させられるような感じです。
だから、FBIの人質事件対策の専門家に対して「一体おたくは誰を助けることに成功したんだ?そいつの名前を教えろ」と「個人名」に固執する主人公に“そんなことに固執して電話のバッテリー消費してんじゃないよ”と思いつつも、こんなシチュエーションだからこそ「たしかに存在した誰か」の生命を救った証拠を切望しているんだな、とちょっと分かってくる。主人公は自分が「確かに存在する生存者」に次に続く「生命を救われた存在」になりたい。その実感が欲しくて欲しくてたまらないわけです。だからFBIから聞き出した「マーク・ホワイト」という生存者の名前を棺の内側にメモまでするんですね。
そういえば自分も電話しながら大して意味の無いフレーズや単語でも、なにかのキーワードを聞き出したかのように、ぼんやり記すことがある。映画の中の主人公にとって「マーク・ホワイト」という人名自体には意味はない、でも書き留められずにいられない。

しかし、いったい、誰が悪いんだ?なんで主人公はこんな目にあってるんだ?

その答えは、一見すると「イラク人」です。
映画の中では「イラク人」は金のためにこんなことをしている。主人公の同僚も躊躇無く殺している。
でも、主人公との会話で「自分の家族は(かつていたけれど)いなくなった」というような発言をしていました(うろ覚え)。
つまり「イラク人」もアメリカがはじめた戦争の被害者でもあるんだと。
ただ、この点はあまり見えにくかったかもしれないけれどね。

じゃあ、危険な地域と分かっていて十分な誘拐対策を講じなかった会社?
確かに、今回の誘拐事件によって残された家族への補償額が生じないように、不当に難癖をつけて誘拐当日の朝に解雇したことにするくだりは最悪でしたね。
でも、職業選択の自由があるアメリカですから、この仕事はあくまで主人公が選択したわけです。だからあとで、妻に「君の忠告を聞けばよかった、すまない」てな感じで謝るわけです。危険を承知でこの仕事についたという意味では、会社が一方的に悪いのではない。

じゃあこんなに誘拐などが頻発しているのに、ろくに救い出すことができないFBIが悪い?主人公も途中で人質対策担当者に「そうやってなだめすかせて死ぬまでのお守りしてるんだな」的なことを言ってますけど。
でも、彼も怠慢なわけではないですよね。映画の終盤に、実際に足を動かして探してるらしい様子がわかる。

つまり、誰も絶対的な悪ではない(誘拐はどんな事情があれひどい犯罪だ、それでも)、各々はそれぞれのフィールドで必死なわけです。
その必死さを、棺に入れられた男のフィールドに焦点を合わせて描いた映画なのです。

さらさらと棺に入ってくる砂。
時間はもうない。
もうすぐ君のところにたどり着くよ、と言っていたFBIも来ない・・・
いや、辿りついたんだ、と絶望的な電話が。FBIがたどり着いたのは「マーク・ホワイト」の棺。

あれ、助けたはずじゃなかったの?マーク・ホワイトって?

この瞬間、人質問題対策のスペシャリストである彼が、嘘をついていたことが分かる。
「いままでも、人質は誰も救えなかったんだ」
主人公は全ての事の成り行きを理解したかのように、自分の運命を悟ったかのように目を見開いて、砂に埋もれていく。

砂に埋もれるといえば安倍公房の『砂の女』ですね。
前に読んだとき、そのどんな隙間にも入り込んでくる砂の描写がすごくて、それだけは今も生理的に覚えている。
一粒でも靴の中に入ったら、気になって気になってしようがないのに、家中それって、どんなよ?と。

一粒は気になるけど、それがたくさんになれば順応するのでしょうね。
一つの誘拐事件は騒がれても、頻発する誘拐事件であればone of themになってしまう。
個人名や固有名があれば、身近に感じられるけれど、「イラク人」のように総体になると、存在の輪郭が不確定で不気味になる。

一つ一つの事象を丁寧に描くことで、自分のイメージのリミットを超えて、さらなる未知の領域を想像できる契機を得られるのかも、と感じられました。

だから、映画を観たりしたくなるんでしょうかね。こういった自分の想像のリミットを越える契機は映画鑑賞体験だけに限らないと思うけど、まあ、今日のところは

こんなところで。