いつも心にナンシーを

今日は、歌舞伎の人が飲酒の上ボコボコにされて、それを機に「それみたことかー、あいつ、いつかこんなことになると思ってたゼ!」とメディア関係の人に思われたのかして、すごい扱われ方で、彼の真偽不明な調子のり発言やら、素行悪かった説やら、タクシー値切りとか、超絶どうでもええわ!ということがものすごく報道されています。歌舞伎の人が白目が真っ赤な状態で会見しているのが、今晩のNHKニュースのトップだったり(ウィキリークス創設者の逮捕よりこっちが重要とは)、民放でも延々と会見を流したりしています。(もう、チャンネルは映画に変えた)
こういう一種のメディアの躁状態に接したり、2010年時点でのマツコデラックスとか、渡辺陽一さん、JOYといった現れては消える(というか猛烈な勢いで消費されつくす、というのか)流行りの“TVタレント”たちのたたずまいに漂うそこはかとない哀れな感じに接して、いわく言い難いような、名状しがたい感じで自分の胸が満たされると、つい思ってしまうのです。「ああ、いまナンシー関がいたら、どんな言葉を与えてくれるんだろう」って。
ナンシー関は消しゴム版画のクオリティもさることながら、消しゴム版画で掘られたTVタレントの顔の横の一言がまた秀逸すぎるのです。地獄のミサワの遠いルーツかも(違う?)。完全に特徴をとらえたシンプルな線+これ以上ない一言。まさにエッセンスの結晶です。
たとえば。ものすごく覚えているのは、高嶋 政伸氏の『ホテル』などでの演技をふまえて、彼のことを“ぬいぐるみ演技”と評したコラム。これを読んで、喉の小骨がとれてすーっとした気持ちになりました。脳内の言語化されないもやもやとした無意識なイメージに、その一言によって光が照射され、言語化された感じだったのです。ナンシー関は、政伸氏の、悲しいときは、悲しい顔。楽しいときは満面の笑み。困ったときは困ったなあ、という顔。という演技を指して、着ぐるみのぬいぐるみが、困ったときは、困ったなあ、というオーバーアクションをする、そういう着ぐるみの演技作法と共通している点を短いコラムでパシっと指摘されていたのですよ。
彼女は、TVをずーっと見てた。そしてTVに出ている人々や現象についてコラムに簡潔に記した。でも、彼女がいくら舌鋒鋭く書いても、世間での評のような“毒舌”とは思わなかったです。彼女ほどコラムで取り上げる対象を愛している人はいなかったと思う。TVタレントたちのうつろいやすい生き様や、仕掛けられたり意図せず起こるブームとその顛末の現象など、ものすごく愛してやまなかった。だからこそ、それらの人や現象の核の部分を人よりもまっすぐに見つめて、取り出して、文章や版画にすることができたと思うのです。そんなコラムだから、決して誹謗中傷ではなかったし、下品じゃなかった。彼女は自分が批判されかねないリスクもすべて引き受けていたから、その覚悟があるから、鋭い指摘も鈍らずできたんですよね。
西田ひかるのバースデイパーティへのつっこみや、賀来千香子氏の声を“あの声は、はっきり言って悪声だと思う。キンキンしているのにコモってる、八方ふさがりみたいな声”と指摘したこと…それらに触れるとその瞬間ハッ、そうか!と気づかされる。彼女には世間で結構な人数がぼんやりもやもや思っていることに言葉を与える才があったと思います。だからつい、思ってしまう。あー、今ナンシー関ならどんな表現を与えるんだろ、って。紅白の人選発表や、新語流行語大賞発表や、…そう、いつも心にちっさいナンシーがいて“これは、なんかにおうよ、勢いだけに流されてはいけないよ”と警告する。でも、自分の心のなかのナンシーはちっさすぎて、ナンシー関みたいな的確な言葉は発することができないのです。自分には愛が足りんのだな、愛が。もちっと、自分の中のナンシーを育てたいものです。それにしても、ナンシーの前にナンシー無く、ナンシーの後にナンシー無しだなー。と、こんなところで。

ナンシー関 顔面至上主義
http://www.jade.dti.ne.jp/~aerie/seki.html