井戸の大きさ、そして『ナムコ系』

人は誰しも好むと好まざるとかかわらず、なんらかのコミュニティにいると思います。コミュニティの大きさは様々で、地縁、血縁、仕事、学校なんかが主だったものですが、ほかに文化的コミュニティとして、音楽や本といったものの愛好による趣味を通じて形成されたものやインターネットにおける情報共有によるコミュニティもある。その愛好の世界に足を踏み入れると、コミュニティ内常識とか共有感覚があって、それが心地よくて、夢中になったりする。自分の“好きなものあるある”の国の住人になったかのようにハイになってね。
「こんなにすげーいいものの価値を見出せた自分らのこと、世の中の一般的連中には理解できないよな!」なんて排他的性質も帯びやすくって、TVなどでネタっぽく“オタク”として扱われる人たちはこういう偏狭な感じでコントっぽく演じられたりしがち。その愛好対象がアイドルとかアニメとか声優だとかなりネタにされやすい感じですが、でも、アイドルやアニメ愛好者ってかなり人数がいるからこそ、世間にも認識されていて、“オタク”をターゲットにした結構な市場まで形成されているわけで、井の中の蛙っていっても、相当大きい井戸ですよね。
思い返すと自分も、音楽が好きになってCDを色々聴きはじめた頃は、“いち早く洋楽聴いてる自分はほかの子と違うな”とか“シブヤ系もメジャーになっちゃったなぁ”なんてイタすぎる感慨を「地獄のミサワ」ばりに抱いていたのです(“黒”までいかない“灰色”歴史)。ちょっとマイナーというか小さい目の井戸の中にいるのがエライみたいな、なんなんだこの感覚・・・。
でも、小さい井戸だからマニアックでエライといったことは無いし、大きい井戸でメジャーだから尊いわけでもない。同性愛者やドラァグ・クイーン、就職活動中の人たち、受験勉強中の学生、ラジオ好き、プラモ好き・・・なんでもいいんですけど、それぞれに共有されてる感覚はあって、その井戸の中以外の人にはわかりにくくても、それぞれの井戸の世界は(倫理的問題はおいとくとして)存在を許されてるからー、多様性ってこの世界の必然!
でも、井戸の大きさが自分の目測や予想以上に小さかったり大きかったときはびっくりしますね。東京という都において、相当話題になっているらしい、とネットの情報をもとに早めチケットを買いに映画館にいったらガラガラだったり(公開2日目の『マチェーテ』での体験)、再結成ライブチケット取れるかなー、と思ってたら、心斎橋クアトロに椅子が出てる上にガラガラだったり(VENUS PETERのライブでの実体験)。逆に、これ公開館多いし楽勝だろーと思ったら満席だったり(『悪人』など)ということもしばしば。井戸の大きさの目測誤りって、自分内評価の高さと世間的認知とのズレによって生じていることが多いのかな。で、自分の評価とか認知のクセを意識して、なるべく一般的な話をして人と話を合わせようとしたりしてる自分を発見して、「あぁ、今、自意識過剰じゃね?自分」と軽く自己嫌悪とか。逆に“好きなものあるある”の国の住人と会ったら、もっと色々知ってるゼ、と言いたくなったり・・・終わらないぐるぐる自意識スパイラル!でも、近年はそんな自意識も大分鳴りを潜めて、かなりマイペースな感じです、もう十分すぎるほど大人ですからね。
しかし先日、「今年、マイナーで知らないかもしれないけど“ナムコ系”のバンドのライブに久しぶりにいったんだよね、筋少とか」という発言を聞いて、「それって“ナゴム系”・・・」と思いつつ、ま、細かいことはいいよね、と指摘しなかったんですが、後になって、いや、あれは間違ってるんだから訂正してあげるのがよかったのかな:でもそれで若干でも傷ついたらかわいそうだしと考え出して・・・うゎ、またスパイラルに嵌ってるよ、自意識陥穽、恐るべし。

ナゴム→ケラさん(現ケラリーノ・サンドロヴィッチさん)が主催していた自主レーベル。電気グルーブの前身である人生や筋肉少女帯などが所属。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CA%A5%B4%A5%E0%A5%EC%A5%B3%A1%BC%A5%C9

結論:今日の日記は「ナムコ系」ってことばを書きたかっただけかもしれない。

地獄のミサワ