『トイレの神様』と『デイドリーム・ビリーバー』

年末ですね。今TVでは『笑っていいとも!』の年末特番やってます。毎年『いいとも!』通常放送ラストの日に大体やってるのかな。タモリさんも、ここまで来ると偉大ですね。リスペクト。
さて、今はテレフォンショッキングの全登場人物のダイジェストをやってるんですが、斉藤和義はいいな。うん、かっこいい。で、植村花菜さんが出たんですね。当然『トイレの神様』のサビんとこ歌ってる箇所でした。この歌が流れてきて耳に入ると感じる違和感てなんだろう、と思って思いついたのは
・抑揚の少ない朗読調(さだまさしの『関白宣言』とか『親父の一番長い日』とか?)
・ストーリー仕立て
・近しい人が亡くなるといういわば禁じ手を直接的表現であらわしてる
・タイトル
・関西弁
この歌聴くとなんか身の置き場がないような気分になるんです。居心地悪いような。“近しい人の死”っていうのは、誰にも起こることで、誰もその悲しみに耐えて、乗り越えて日常を送っていく、順送りにね。死は一番ドラマティックなことで、誰も等しくその事態に直面する。それゆえ、文学もなにもかも“いつかは死ぬ人間という存在”が前提となって作られているし、歌だって古来からそうだと思う。でも、近しい人の死を直接的・具体的な歌詞に著すということは、死を“物語化”しちゃうことになってしまうと思うのです。確かに感情には直接的に働きかけるけど、実際の悲しみも “物語化”しちゃったストーリーとして消費されちゃうというか。上手くいえないな・・・
でも、忌野清志郎(ザ・タイマーズ)の『デイドリーム・ビリーバー』はそんなふうに思わないんですよね。普遍的な感じに思えるんだな。でも、歌詞を聴きながら、これはキヨシローが亡くなったお母さんのこと歌ってるんだな、という具体的な事実が分かるし、その不在の悲しみや、深い思いや愛がわかって胸がすごく熱くなるんですけどね。単語も言葉数も少ないし、シンプル。なのに、なんでこんなに伝わるんだろ?
あと、「神様がいるんやで」の「やで」が、なんだかダメなんだぁ。うあぁ、このもやもやする感じをどう表現したらいいのやら。これは“関西弁を商業ベースに乗せたときの違和感”としてくくれるような気がする(たとえば、飲食店のメニューでの、かぼちゃの煮つけ⇒“なんきんの炊いたん”みたいな)けど、考えがまとまらないので、今日はこのくらいにしておこうかな。自分も普段は関西弁(これは神戸生まれ育ちなんでどうしようもない)ユーザーだけど、すごく居心地悪い。
でも、植村さん、せっかく世に名前が広がる契機になる曲をつかんだんだから、がんばってほしいね。歌は言葉数がすくなくても、普遍的なことを歌えると思うから、そういうのを目指して欲しいなー。ブルーハーツだってあんなに曲も短くて、歌詞もシンプルなのに、凄く響くじゃん、ね。
※以上、あくまで個人の感想ですので、その効能・効果を保証するものでは ありません。じゃなくて、人により感じ方違って当然!
トイレの神様
http://www.youtube.com/watch?v=Z2VoEN1iooE
『デイドリーム・ビリーバー』
http://lyric.kget.jp/lyric/oy/yr/
http://bestcd2.blog97.fc2.com/blog-entry-679.html