平坦な日常を生きる アルゼンチン映画『ルイーサ』

先日、『ペルシャ猫を誰も知らない』の感想について書いたのですが、それと同じ日に同じKAVCで観た『ルイーサ』について書いてみます。夫も幼い娘も昔に亡くしたルイーサは長きにわたって1人と1匹(猫)で生きてきた。猫ティノが亡くなった日、定年まであと1年を残して、2箇所の働き先から同時にリストラされる。退職金ももらえず、愛猫ティノを弔うお金も電気代もない。ティノを焼いてあげるお金を貯めるためだけに、地下鉄で物乞いをはじめるんだけど・・・
ルイーサは一言でいうとオールドファッション。きっちりセンター分けの髪型と、黒っぽいヨレっとしたスーツ、寝るときはナイトキャップ。時間に正確に、判で押したような毎日を生きている。まず、起きて、愛猫とともに食事、毎日同じ服を着て、同じ時間に家を出て毎日同じバスに乗り、夫と娘の墓に参り、出勤する。彼女はそのルーティーンを生きててそれ以外の世界や生活を知らない。だから、リストラで生活に激変が生じるまで地下鉄にも乗ったことないし、銀行から手紙がきても、手紙に便宜的に書いてある頭取の名前を見て、頭取に会わせろ、頭取から説明を受ける、といってきかない。そんな、日々の生活のルーティーンをひたすら生きてきた彼女は、自分を客観視する、とか“わたし、このままじゃいけない、本当の自分があるはずなのに”みたいな自分探しとかと無縁のキャラクターです。粛々と日々の日常を生活している人なので。だから、リストラによりルーティーンな生活ががらがらと崩れ去った後に残っている目の前にある課題⇒「亡くなった愛猫ティノを葬うため、ペット用火葬場で焼いてあげること」だけに執着する。それがなきゃ、自分のよって立つところが無いかのように・・・おぼれる者が掴む藁のように猫の死体にしがみつく。
役所に頼る、とか、弁護士に相談する、とかネットでいい方法を探す、とかそんなの考えが及ばない。地下鉄で物乞いで小銭を得ているのを目にしたら、その方法にすぐに飛びつく・・・でもそんななりふり構わぬやり方を取らざるをえなかったからこそ、彼女は地下鉄の物乞いとコミュニケーションを取ったり、アパートの管理人などと関わることになる。“やるべき事”が目の前にぶらさがってると、とりあえずは人は動くことができる。彼女は劇中「(猫を弔った後)この先どうするの?」と聞かれて「どうしたらいいのか、それがわからないのよ」みたいなことを言うセリフがあって。うん、でも彼女は猫を弔ってあげて、愛する夫と娘の墓の間に埋葬して、その墓を守ることで生きていけるだろうと思う。また、この一連で関わりを持つことになった地下鉄の物乞いじいさんやアパートの管理人とコミュニケーションも取るだろうし、退職金をきちんと受け取るための争いにも正面から臨むだろう。リストラや愛猫の死を経て、彼女は新たなルーティーンの日常を形成して淡々と生きていくんじゃない?人とコミュニケーションを取るうちに表情もほぐれてきたし、以前とはすこし違う日常を粛々と生活していくだろう、っていう希望に満ち溢れたわけでも、暗く憂鬱なわけでもない、フラットな地平で終わっていると感じました。
しかし、狂言回しに愛猫ティノの死体を使うってのがすごかった。ティノを火葬できないからとりあえず冷凍保存!ってハムっぽくぐるぐるに包装して、たまにそれに触って「ティノ・・・」って。電気が止まって管理人さんのとこに「このラム肉、入れといて」って頼んだり・・・映画のキーに人の死体はよく使われるけど、猫の死体ってね。この映画のあれこれは、時間が経つと忘れてしまうだろうけど、猫の死体を靴箱にいれて歩いたり、ラム肉風に包んだりしたところは覚えてるかもしれない、とふと思う。
アルゼンチンの映画に触れることはほとんどなかったので、地下鉄でカードを無理やり配って「家族がHIV感染なんです、よかったらカード買って」っていう小銭稼ぎとか、ほんとにあるの?って思った。異なる文化を目にすることができるのも、映画のいいところ。寝る前にナイトキャップをかぶるルイーサを観て、その髪洗ってるの?というのも気になった。アルゼンチンの風呂文化はいかなるもんなんだろ?洗濯機の姿も見えなかったけど、服はどうやって洗ってるの?・・・。いや、異文化興味ぶかい。そんなことに思いを巡らせた小品。

『ルイーサ』(アルゼンチン/スペイン/2008) ゴンサロ・カルサーダ:監督 
http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=337282
http://www.action-inc.co.jp/luisa/
ネコかわいいよネコ。一方ルイーサはセンター分けがあざやか。
音楽もよかったですよ