コレクター魂の行き着く先は・・・。ほんとは怖い『ハーブ&ドロシー』

1月23日(日)シネリーブル神戸に『ハーブ&ドロシー』を観にいったのです。
ハーブとドロシーは老夫婦。元郵便局員と元図書館員のつつましい生活を小さなアパートの一室で送っているこの二人は、NYの現代アートの有数のコレクターだった・・・!小さな部屋に収まりきらない2000点余りの作品をナショナルギャラリーに寄贈したエピソードを軸に、二人の生活、アート収集の様子を、密着&アーティストの証言で描いていく。この二人は、自分の収入で買える程度の値段で、小さいなアパートに収まる大きさのもの、そして自分たちが気に入ったもの、という基準をクリアした作品をガンガン購入していく。アーティストの仕事部屋に直接出かけて全ての作品を見せてもらった上で、何点も購入する。・・・ちょっといい話(美談)みたいですけど、これって“何かにとりつかれてしまった”人の生き様を描いてるわけで、その“何か”って「マンガ」「映画」「フィギュア」「鉄道」「切手」「音楽」・・・なんでもいいんですけど、それがたまさか「現代アート」だったというところがポイントだなーと思いました、単なる「アート」じゃなく「現代」がくっつくところも。
現代アート」というと、“抽象的でなんかよくわからんけど、芸術とカテゴライズされて立派な美術館に収蔵されるからには、教育によさそうだし高尚で文化的って感じ”というぼんやりしたイメージで世間的に受容されてて、だからこそ、こんな分かりにくい芸術を収集した二人は見る目を持ったすごい夫婦!となるわけで*1。しかも収入も低い、背の低い小さな小さな夫婦というビジュアルも、なんだかいい感じ。だって、現代アートみたいな先鋭的・アブストラクトなものを愛でそうな風体に見えないものな。そんな“現代アート”“小さい老夫婦”“つつましい生活”といった要素がこれを映画足らしめている。
でも、これは“コレクター”がいかに恐ろしいかを描いてもいると思うのですよ。ロクに包みすら開けられない、飾る場所もなく梱包されたままの大量のアート作品群で生活スペースは狭められ、それでも絶対に売らない。また、さらにどんどん買い足す。理由は「もっているだけでしあわせ」・・・自分も学生の頃に本を買い集めるのが好きで(稀覯本みたいのじゃなく、やっすい本)、梅田はかっぱ横丁、神戸は後藤書店、サンパル、モトコー、新開地を徘徊していたのですが、見つけた瞬間の満足感ったら。また、その満ち足りた気分でレジ持って行く瞬間の嬉しいことったらない。ハーブとドロシーも現代アートの作品を見た瞬間で脳のどっかに電流が走って「これが気に入った!好きだ!」という思いで頭がいっぱいになったら、欲しくて欲しくてたまらない。もし買わずに躊躇して帰ろうものなら寝床で「あぁやっぱ買っておけばよかった、金なんてほかの出費をガマンすればいいじゃん、ほかの人に買われたらどうするよ」という焦燥で眠れなくなりそうです(映画内でそんなシーンはないけど)。手に入れたら満足と安心感でいっぱいになる。でも、ほかにまだこんな風な自分に響くアート作品が既に存在していて、それが誰かに手に入れられてしまうかも・・と思うとさらに収集に出かけずにおれない・・・うわ、無限地獄か?
いや、地獄じゃないでしょう。好きなものが自分を待ってる、という感覚なんだろうから。周囲の人間にはどう思われようと、ね。自分はそんな収集欲は減ったので、ハーブとドロシーほどの満足感を得られる瞬間は減ったといえるかもしれないな。あと、ハーブとドロシーが“ドヤ顔”人種じゃなかったのもポイント。「こんなすごいの知ってるし、持ってるし」みたいな他人への見え方を気にする人種じゃなく、ひたすら自分の「大好きでたまならないもの」への愛情:自分たち−作品との関係に終始してるから、信頼できる。そして作品が増えすぎた二人が取ったチョイスはナショナルギャラリーへの寄贈。これって、誰かどこの馬の骨とも分からぬものへの転売を嫌う二人にとって自然な選択でしょうね。だって、ずっと『ハーバート&ドロシー・ヴォーゲル・コレクション』であり続けるわけで、自分たちの手元になくても、自分達のものであり続けるわけだからな。うん、これぞ正しくコレクターの行き着く先だ。

『ハーブ&ドロシー』(2008/アメリカ) 佐々木芽生:監督
http://www.herbanddorothy.com/jp/index.html
http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=337766

※最後にmacストアにmacのノートPC買いにいく二人が映る場面を観て、macへのアコガレが増した。

*1:“〜わけで”:『北の国から』リスペクト