午前十時の映画祭『エイリアン』

いよいよ始まった第2回午前十時の映画祭。西宮TOHOシネマズでの第1週は『エイリアン』です。というわけで観にいってきました。
以前は、フジTVの洋画劇場で何回も放送していたような気がするのですが、めっきり放送されなくなっちゃいましたね。やっぱり、あのお腹を突き破って出てくるところが「残酷描写でひどい!こどもが観たらトラウマになる!」なんてクレーム対策の自主規制でしょうか(そういや『吉原炎上』とかもTVでは全然放映しなくなった)。
そんな『エイリアン』を久しぶりにきっちり最初から最後まで観て、「あぁー、そっち行っちゃダメだよ」「や、その卵は・・・」「ほらほらほらー」と、志村うしろ!みたいに、分かってても面白く観られるのは、さすがクラシック。去年観た『パンドラム』も完全に『エイリアン』ありきの作品だよなーと改めて思い出したりした。
ガジェットの懐かしい感もありました、レトロフューチャーというか。『エイリアン』の公開された1979年頃はモニターはブラウン管で、黒画面に緑文字で、文字が出るだけでも効果音つけちゃう時代だった。今はホログラムとかタッチパネルだけど、あくまで突起したボタンに2Dな画面なのな。宇宙船だってミニチュア感があるし。『ミクロの決死圏』でもやたら電球がピカピカしてたけど、『エイリアン』にも豆電球をびっしりはりめぐらせた部屋が出てきた。この、影が生じない真っ白い部屋をしつらえて、そこをマザーコンピュータの部屋にするっていうのは『2001年宇宙の旅』の影響ですかね。
この映画にはいくつかの構造があって、単純にはシガニー・ウィーバー演じるリプリーと男性船長であるダラスの船内における力関係で、新書とか週刊誌とかで「女性上司の会社での立ち位置と苦悩」特集みたいにとりあげられそうな、そんな実社会との暗喩。あと後半に顕著になる、サバイブするという本能にかかる、完璧な生命体とされるエイリアンと脆弱な人間の対比。他の生物を捕食して新たな命を産み出し、生き延びるということ。などなど。
それらのテーマは極めて実社会や人間の生存に関わる根源的なものだけど、それをSFにより描くことだけではクラシックになりえなかったと思う。けど、顔に貼り付いた異形のモノ、男の腹からエイリアンが生まれるイメージ、またそのエイリアンの造形!(深海生物的?)科学者のアレが露見するところなどのビジュアルイメージの鮮烈さが今見てもすごいな、と思うけど、公開当時はもっとすごいインパクトだったんだと思う。ほかにも、ネコの使い方、一人、また一人と減っていくなかで、いやが上でも増すサバイブ感、暗い空間の中で瞬くストロボライトに浮かび上がるエイリアン。・・・今ではもっとCG技術も進んでるからエイリアン的存在ってもっとしつこく描くところだと思うのですが、この作品におけるエイリアンの登場の結構なあっさり感(あと、宇宙船内部と一体化してるとこはちょっと笑ったよ)、バトルシーンの少なさ、死体とかもそんなに出てこないあっさり描写にちょっと意外な感じを覚えた。や、でも十分です。こわいよエイリアン、こわい。さ、来週は『キャリー』だよ。
『エイリアン』(1979/アメリカ)リドリー・スコット:監督
http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=2752