世界の見え方は人の存在する数だけある(当たり前)

たまに野球場へ野球を見にいくことがあります。硬球がバットにあたって客席に飛んできたら、それはそれは(単なるファウルチップであっても)怖いんですよ。そんなボールから自分を守ってくれるのが球場のネットです。ありがたやネット、人間の知恵すばらしい。ボールから身を守ってくれるネットがあっても、ちゃんと選手がプレーする姿は見えるんです、が、内野にいる選手を写真で撮ってみよう、なんて思うとこれが上手く撮れないんですよね。ネットが物凄くその存在を主張をするんですよ。当たり前のことだけど、人間の眼はモノをありのまま見てない。見たいものを見ている、取捨選択したりフォーカスを合わせたりして脳内で見たいものを主体として情報処理する(というかそうしないと人間生きていけない)*1。だから肉眼で見たもの*2と、写真の結果に違いがあるのは当然で、その違いこそが写真をアート足らしめるポイントのような気がします。
日々の生活においても、それぞれの生きる日常の現場(会社とか学校とか)の共通コードや、触れるメディア、インターネット、ブックマーク等から得る情報等などは人それぞれだし、各々が見たいものは違うから、それぞれの見ている世界は違う。そこにある世界は同じはずなのに、主体が変わるとその捉え方はまったく違うわけですが、そんなことは常識、当たり前。わかってはいたことですが、自分の場合はtwitterを始めてみたら殊更それを実感しました。自分がネットで捕捉したい情報を得ようとなんとなくフォローし始めてみると、タイムラインは自分の好むある傾向の色に染まる。そのタイムラインやクラスタ内での意見が世界でも結構な多勢を占めてるみたいに見える。いやいや、でも、職場ではtwitterで話題になってるようなこと話してないよ。TL上では『ソーシャル・ネットワーク』や『冷たい熱帯魚』がものすごい熱量で語られていても、職場では話題にものぼらない。東京都の青少年健全育成条例のことを言ってみても、TVとかで報道されてないし、まずその条例がどんなものかすら知らない人が多い。それらのことが、いいとか悪いとかじゃなくて、それで当たり前なんだよな、と思う。はてブ*3、とかホッテントリとか存在すら知らない人のほうが圧倒的に多い*4
でも、そんな日常において、思いもかけぬ人が、自分とちょっと趣味が重なっているのがわかったら、その人が今までとちょっと違って見えたりすることもある。うん、濃密な情報や知らない素敵な情報を得られるネットはすばらしい。でも、現実世界の他愛ない話題(天気とか花粉症とか風邪の流行とか)もあってこそバランスが保たれてるような気がちょっとする。他愛のない話題はうたかたみたいなものですが、それが無いと困る、っていうか必要。でも、「ほら、最近ホッテントリにあがってたあの話題!」って話をふって、「あぁ、あれね」とすぐ返してくれる人が居てくれたら、それはそれでとっても楽しいだろうな、と思うのでした。そういう人が居ないものだから、先日久しぶりに友人に会ったとき「最近なんの映画観た?」って聞かれて、『冷たい熱帯魚』について、ついつい一生懸命説明してしまい、後で友人に「隣に座ってたカップルぽかーん、でしたよ」と言われたりしてる自分は、ちょっとイタイ奴だよな…と反省したりする*5そんな日常。

*1:同様に聞きたいことを聞くように出来ている

*2:しかも人によってその肉眼で見た印象すら一致はしない

*3:はてなブックマーク

*4:知らなくても全然いいと思うけど

*5:その話をしたのが飲食店だったのでよけい反省