選択しないという選択『ミスター・ノーバディ』

人が死ぬべき存在ではなくなった世界が舞台です。永遠の命を得るすべを得た人類にあって、その処置を行わなかった最後の死すべき人間の物語。その者の名前すら、あいまい(ニモ・ノーバディ)だし、その者の歴史すらあいまい。彼が語る過去は、登場人物も彼自身も、ストーリー自体もバラバラのサンプリングで矛盾だらけ。なぜなら、結婚する相手も3人登場し、その妻が誰かによって、彼の人生もバラバラだから。それらの妻と築く家庭もいくつもの可能性をはらんでおり、その“あったかもしれない複数の可能性過去”を並列に語るから、訳がわからない。一体おまえの本当の人生はどんなストーリーだったのか?
以下自分の思ったコトを書くので、ネタバレてます(自分なりの感想なので、思い込みもあると思うけど)。事前の想像どおり『バタフライ・エフェクト』のフレームがすぐ思い浮かぶ。蝶の羽ばたきひとつが、世界に影響を与えることがある。ある偶然の網目が絡み合った中でなされる選択が次の状況をつくり、その結果を経て、さらに選択する。人生は選択の連続ともいえましょう。『アジャストメント』ではその偶然を調整局が司っている、というわけだったけれど、この映画では調整局はない。その代わりに映画内で描かれるさまざまな運命の設計図を引くのは誰かというと、ニモ自身なんですね。離婚する親・・・父か母どちらについていくか選ばねばならない。引き裂かれる幼いニモ、その彼が混乱した脳内でつくりだしたのは、ある得べき可能性に満ちた未来のそれぞれの可能性の芽が枝分かれして伸びていったらどうなるかという、パラレルワールドだった…!そのパラレルワールドが描かれる映画なのです。
人は物語が大好き。物語って“すわり”がいい、心にすとんと落ちる。理由があって結果がある、の連続だから物語って気持ちいい。この映画はその気持ちいい連続性から逸脱しようとしているから、観てる間はずっとすわりが悪い感じ。あり得るあらゆる可能性をパラレルに描いていくから、ニモが一体どんな連続性のある人生を送ったのかがさっぱり掴めない。われわれ観客はニモを見つけることができるのでしょうか*1。そこが気になって観続けちゃうというストーリーの求心力がある。
ニモと結婚する可能性をもつ3人の女の子が登場します。一人は金髪のエリース(サラ・ポーリー)、一人はブラウンヘアのアンナ(ダイアン・クルーガー)、東洋系の女の子ジーン。可能性過去の中でジーンは本当にかわいそうな役回り。ニモが彼女のことを愛していないのを分かっていて、彼を支えているけなげな自己犠牲的女性*2という設定で、多彩な過去の可能性が示されるめまぐるしい展開の中でも、彼女のそのポジションだけは揺るがない。出番も少ないし、ジーンとの過去はないな、と思う。彼女は主にエリースとのシークエンスを引き立てるためのかませ犬。そのエリースはいかにも美人で、ジョックス野郎と付き合うチアリーダーみたいな顔してるんですが、ダメ男に惹かれちゃう恋愛依存タイプで相手への依存度が高すぎて、自分がものすごい不安定という女の子。ニモのエリースへの思いは、一目ぼれの初恋のような感じかな。理想化しちゃって理由も無く惹かれ、自分こそが彼女を支えねば、という思いにとらわれてる。エリースは不安定が高じて心が病んでしまってる。ここで印象深いシーンは、鬱から一挙に躁状態になって、エリースがこどものバースデイ・パーティに乗り込んで暴れまくるところ*3。エリースの異物感…。どう転んでも不幸せな結末にしか至らないようなイメージ。
そして、茶色い髪のアンナ。ラスト近く、どうも本当の“事実”はアンナとの過去だったらしい、と示唆されます。それは必然的にそうだよな、と思う。というのも、非常に感覚的な印象だけど、アンナとの描写のディテールの生々しさやいきいきとした描写が、ほかの二人の妻のぼんやりしたリアリティとはレベルが違うのです。アンナとの出会いと惹かれあう様子。お互いの気持ちは、まちがいない、と確信し、みつめあって、さぁ、というときに鳥肌がたって、腕の体毛がぞわわっと立つ瞬間の映像をアップで執拗に映し出す。こんな感覚的なディテールが描かれてる時点で、これはニモが体験ことしただろうな、と思ったのです。
・・・ケド、ラストでは、9歳のニモが父と母のどちらを選択するか、悩み混乱したあげく、父のほうでも母のほうでもない第3の道へと走り出す。ここで、語られてきたコトすべて(※人間が死ななくなった未来さえも)ほわほわとした“有り得べき可能性”のレベルに引き下げられる。うむむ、なにが事実なんだろ。というか死のうとしている老人姿のニモも含め、すべては、SF大好き少年に成長するニモの描き出した妄想なのか(このあたりが分かりにくかった、自分の理解力の限界…)。
でも確かなことはひとつある。ニモは「死すべき人間」であることを選択したということ(妄想にせよ、事実にせよ、これだけは間違いない)。あらゆる可能性は、命が有限だからこそ輝く。無限の命なら、あらゆる可能性をお試しできるけど、有限だったらそうはいかない。一回性の連続、偶然やなにかに振り回されるかもしれない、けどそれだからこそ尊い。その尊さを選択したということかな、この映画は。
ミスター・ノーバディ(2009/フランス=ドイツ=カナダ=ベルギー)監督:ジャコ・ヴァン・ドルマル 出演:ジャレッド・レトサラ・ポーリーダイアン・クルーガー、リン・ダン・ファン
http://www.astaire.co.jp/mr.nobody/
http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD18086/

※離婚する母についていったニモが思春期をむかえ、反抗しつつ親の関心を引きたい時期。彼が取る行動が完全に『ハロルドとモード』。
※『エンジェル・ウォーズ』ではカバーがつかわれてたピクシーズの『where is my mind』がこの映画でも使われてた。
ジャレッド・レト、よかった。
※映像きれい。凝ってる。
※好きな女の子が、再婚相手の連れ子で同居しはじめて…てマンガというか思春期の妄想の定番パターンでは。

*1:ファインディング・ニモ

*2:東洋系に設定しているのはそういう性格ゆえでしょうか

*3:ネーナのオリジナルの99バルーンが流れてる。これってアメリカでは定番の曲になってるんかな