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『人魚伝説』

映画

反原発×映画の特集上映で『人魚伝説』が上映されるというので、朝イチでシネ・ヌーヴォへでかけましたよ。噂に聞いていた作品だったのですが、あまり事前知識を入れずに行ったので、物語が展開するたびに、ええぇ?の連続でした。1984年公開の池田敏春監督作品。原作は76年に連載されたマンガ『密漁の白い肌』。ATG作品。反原発、殺人、殺戮、裏切り、復讐、地方の問題、土建屋さん、議会のセンセイの口利き、利権、裸、やたら露骨な男女の絡まりシーン、大量の血、噴き出す血、海、海女、超自然現象、ありえないような飛躍…とにかく要素が多すぎて、ストーリーを書いてもなにがなにやら、という感じになってしまうと思う。
でもお話は単純と言えば、単純なのです。夫:啓介(江藤潤)を原発絡みの謀略により殺された海女:みぎわ(白都真理)は夫を何者かに殺されたあげく殺しの罪をなすりつけられて逃亡するのですが、彼女の行動原理はたったひとつ「誰が自分の夫を殺し、何のために夫は死ななければならなかったのかを知りたい」ということだけです。「なんでウチん人死んだん?」というこの一点のみで、最初から最後までまったくブレないため、要素過多にもかかわらず、破綻はしていないのだと感じました。
夫を殺されてしまい、ひとつの思い、情念というか、執着というか…そのような思いで頭の中は満たされてしまい、みぎわは、もう途中から狂っているわけです。ふらふらと足元も定まらず、視線もうつろ、そんな狂女じみた彼女はからっぽで、清水健太郎演じる土建屋の息子がえげつなく襲いかかろうが、その清水健太郎が送り込んだ刺客に犯されたあげく殺されそうになろうが、彼女自身のことはまったくどうでもよくなっている。自分が存在してるのはすべて夫の死の理由を知るためであって、自尊感情がゼロになってしまっているようです。大切な存在が突如失われたら、その欠落ゆえ自分が生きてることを支える理由が薄弱になる場合があるのかな。ましてその大切な存在が失われた理由が理不尽であったり、訳がわからなかったりすると、自分のなかで折り合いをつけられずに、その欠落に囚われてしまう*1。生者の世界より、死者の世界側に囚われそちらに引っ張られているのですね。
そんな生と死、正気と狂気のあわいにいる彼女を主役に据えているからには、映画内で起こることはすべて、夢かうつつかそのふたつの世界の交わるところで起こっているようです。海にざぶんと入って泳ぐ美しい映像は夢のようだし、みぎわは水を通じればなんでもどこへでも行けてしまうっていう飛躍も、ま、この映画内ではそういうこともあろうか…と思える、かな。啓介亡きあと映画内で起こる事象は、すべて人が寝ているときに見る夢のように、どこかいびつで過剰です。血だって、死ぬ人数だって、おっこちる崖の高さだって過剰。でも、原発利権の描写については、そんなに現実離れしていないように感じてしまった。きっと今年の3月11日以前に観てたら、ありえないほどの誇張のように見えてただろうけど。それぐらい今現実に起こっている事象は“ありえないはず”だったことなんだろうと、あらためて、すぅっと背中が寒くなった。
クライマックスで大の男が何人がかりでも彼女を止められなかったり、また地面で研いだだけの頼りない銛でそんなにことができるの?など、突っ込みどころといえば突っ込めるところだけど、監督の情念がのりうつったかのような白都真理さんの鬼気迫るふらっふらに体力を消耗した演技で、目が離せない。目が乾きそうなほど括目して見入りました。まるで神話のなかに登場する荒ぶる神のように、嵐をおこし、海を自分の味方につけた彼女は、眼前の人間どもを罰するかのごとく男も女も関係なく倒していく。そんな彼女が最後にぽつりと言ったように、たおすべき敵、みえない敵は無限に存在している。ある利権があるかぎり、きっとそれを利用して甘い蜜を吸おうとする者は次々出てくるんですね。なるほどこの映画は政治的メッセージが強いなぁ、と感じました。こういう利権構造のフレームは厳然として世界に(今も昔も)ある、ということ。でも、それを訴えるのに用いたエピソードや描写のいびつなほどの過剰さが、今作が映画として強烈で、人に衝撃を与えうる力がある所以かな、と思いましたよ。

『人魚伝説』 (1984/日本)監督:池田敏春 出演:白都真理、江藤潤、清水健太郎、神田隆、関弘子
http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD18367/

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*1:未解決事件や失踪、こないだの中国の列車事故みたいな事例もそういう可能性がありそう