午前十時の映画祭『真夜中のカーボーイ』

原題『Midnight Cowboy』ジョン・ヴォイト演じるテキサスの自称色男がニューヨークに行き、有閑マダム相手の高級男娼だかヒモとして一旗あげようとするも、現実そんな目の血走った男狂いの有閑マダムなんていなくって、どんどんと堕ちていき、片足の不自由なダスティン・ホフマンと電気もない廃アパートで肩寄せ合って暮らすお話です。互いが互いを必要としていた、この二人の出会いは偶然のようで、きっと必然。人は一人では生きていけない。そんな出会いの不思議を描く映画・・・って説明でも、あながち間違ってもいないかな。
ジョン・ヴォイトは浅薄でお人よしでアホっぽさ満開なキャラにみえてどうやら過去の経験から心に傷を負っているらしいのですが、それは過去に経験した事件のフラッシュバックの映像で示唆するのみで、説明もなんもしないのですが、ちゃんとわかるようになっている。それが素晴らしい。また過去/幼少期の経験のフラッシュバックするイメージの集積で、どうして年配の奥様のヒモになろうとしているのかもわかるようなつくりです。説明セリフがないほうがイメージが湧く、というのは『2001年宇宙の旅』でキューブリックが当初入れる予定だったナレーションを全部省いた、ってのと通じるような。
さて、ジョン・ヴォイトダスティン・ホフマンも、とにかくさみしい。大都会で人はたくさんいるけれど、孤独で寄る辺なくて、さみしさが二人にまとわりつくオーラになってる。そんなふたりが夢見るのは有閑マダムからおこづかいをいただく楽チンな生活であったり、フロリダの太陽燦々ふりそそぐ温暖な気候のもと、暇を持て余したおばさま方にかこまれて健康で安楽に暮らす生活だったりする。このぼんやりした楽園イメージも、結局ここではないどこか幻想とか桃源郷幻想なだけです。決して手に入らない、馬の鼻先にぶらさげた人参みたいな感じ、TVドラマの『西遊記』における天竺みたいなもので、この夢をよすがに前進しようとするのです。でも現実は、夢に近づくどころか、貧乏で薄汚くて病気で、にっちもさっちも行かない。ふたりは世間から置いてけぼりくらったみたいな存在です。時代遅れのカウボーイ*1と背も低く、脚も不自由で生きていくためにはなんでもやるペテン師のコソ泥。社会のメインストリームに乗れないふたりは共感をいだいて、惹かれあい、補い合おうとするわな。誰かに必要とされたい、誰かに支えてほしい、という思いを満たしてくれるのは大都会の孤独のなかでたまさか出会ったこの相手しかいない、となったわけで…(ほら、出会いの不思議さを描いてるよね)。
ラストの切なさ*2、うつくしさ、ダスティン・ホフマンの素晴らしい演技がよかったな。ジョン・ヴォイトもはまり役。あと、ダスティン・ホフマンジョン・ヴォイトの関係性のホモ・ソーシャルだかホモ・セクシャルな親密さ(『傷だらけの天使』はちゃんと観てませんが、きっとこんなイメージ)の表現など、のちの映画にも多大な影響をあたえていると思います。興味のある方はぜひ!
真夜中のカーボーイ(1969/アメリカ)監督:ジョン・シュレシンジャー 出演:ダスティン・ホフマンジョン・ヴォイト
http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD18050/index.html

※孤独なカウボーイであるジョン・ヴォイト演じるジョーは常にラジオを持ち歩いている。声って孤独の友なんだな。今作は“ラジオ映画”だな、と思った。
※冒頭のジョン・ヴォイトがテキサスからNYへ一旗揚げに出発するシークエンスは、なんだか『バーレスク』の冒頭と似てるなぁ(『バーレスク』は影響されてるんだろうか?)と思いました。宿泊先安ホテルの絵葉書(ホテルの絵が描いてある)に「ココが自分の部屋」と印をつけて送ろうとするところとかね。
※途中ウォーホールのファクトリーみたいなところのパーティ場面が出てくるのですが、このシークエンスのどこかスノッブなバカ騒ぎパーティの描写といい69年という時代の空気をたっぷり含んだ映画になっていました。

*1:見かけだけ

*2:ジョン・ヴォイトが大事にしてたカウボーイルックを捨てるところやバス車中でむかえるラスト…