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愛と狂いの狭間で『CUT』

シネマートで1回だけ予告を観たときに「これは相当イタイ映画かもしれない」と思いましたが、どうにも引っかかる、というか気になる映画だったので観に行ってきました。(あと西島くんが好きなので)
イタイというのは、観ているこっちが恥ずかしくなるようなストレートな表現が映画内でなされていそうで、それは中高生の頃の自分を思い出すがごとく恥ずかしいがな、と思うわけです。小津や溝口を引き合いに出して、現代のシネコンでかかるような映画腐ってる!とかいうのは、なんだか聞くだけでも恥ずかしい、それを正面切ってやってるのかなぁ、などとぼんやり予想してました。そうして観たところ、予想通り、いや予想以上のセリフの数々に、イタタタ、と思いつつ、そのイタさを肉体的痛さとして正面切って受け止める主人公が描かれているさまを目の当たりにして、コトバをちょっと失ったのです。それは比喩として言った表現をそのまんま現実化して演じられてる不思議さに唖然とするような感じ(あぁうまく言えない)。
過剰な自意識が、メタ的/客観的視点からしたらイタいことなんて百も承知なんですよ。でも、一部の映画好き人々が、宣伝だけみてシネコンに来るような、泣ける映画観たいと思ってシネコンに来るような、とりあえずデートなら映画かなといってシネコンに来るような、サービスデーも何も関係なく定価でチケット買ってポップコーンも買うような客層とか*1…そういう人たちと自分を分けて考えてるよね。その一方で、「シネフィルとかって記号論とかテクスト論とか表層批評とかカイエ・デュ・シネマとかゴダールとかヌーベルバーグとか?なんか高踏的?映画に高尚も低俗もなくて、全部等しなみに捉えるべきなのに」とかって思ってる*2。結局、それもどこか選民意識な感じがするのなぁ。あちら(一般人)やこちら(偏りのあると思われる一部インテレクチュアルズ、とか)に目配せしながら、相対化して、自分の位置を確かめ正当化し、identifiedするような。…でも映画内の秀二は、ドがつくほどにストレートに映画は芸術だ!と叫ぶ。周りを見回して自己規定することなんてない。その生々しくて、イタイ彼の姿に、うわぁ、と思いつつ我が身を省みてちょっといたたまれなくなる。自分はそこまで入れ込んでないし、どこか客観的だよ映画に対して*3
映画は所詮娯楽だし、映画が無くなったとしても人は生きていくもんだ、と思ってます。とても寂しくなるだろうけど、普通に生きられるでしょう。映画内の秀二も映画がなくても生きていけると思う。でも、映画がなくなったら、きっと彼は生きてるけど生きてない状態になると思う、そして無いのなら自分で創作するしかないよな、映画を!という夢を実現することだけが自分を支えるような生き方を選ぶでしょう。黒澤明の『生きる』の主人公のようにね。彼の映画愛は一種の狂気の愛で、しばらくは彼が狂ってるように見え、また、敬遠したくなった。でも、彼が殴られ屋稼業に従事する2週間という期間があったから、段々と狂気の奥に見えてくる生きるために必要な成分としての映画への愛が潜んでいることを感じて、劇中の常盤貴子らのように秀二にすこぅし同情したくなってきた。それは自分にはもちえない熱情への憧れかも。でもそれほどの狂える愛は日常生活には支障をきたすよな…秀二の送る困難な人生のごとくね。
でも、あのラストまで観ても秀二が傑作を撮れるとは思えなかったな。彼は優れた映画を見抜き、惜しみない愛を注ぐ慈愛というか才能に恵まれているけれど、自ら生み出すことはできなさそうだ。『アマデウス』でいうと、モーツァルトじゃなくてサリエリ側のような。そして映画を愛する人らの苦闘の末に生み出した成果物を受け取るばかりの自分はやっぱりモーツァルトでもサリエリでもない、大衆オペラの観客…。何者かになるようなこともできない人々のうちのひとりでありますな。うん、でもそれはそれでしあわせ。
『CUT』(2011/日本)監督:アミール・ナデリ 出演:西島秀俊常盤貴子菅田俊、でんでん
http://bitters.co.jp/cut/
http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD19543/index.html

※西島くんの肉体の絞り方はすごかったです、美しい腹筋を堪能しました。ブラックでんでんもよかったし、常盤さんもとても美しかったです。
※劇中であったビル屋上でのシネフィルな上映会って実際やっても、映画の中に出てきたような若めの客層が来そうだなあ、と思いました。東京なら成り立つだろうな、ああいうのも。

*1:その分ほかの映画観られるじゃん!という発想がないような

*2:イメージです

*3:自分の観たいように観て自分の感じたとおり感じてればいいじゃん、と思えるようになってきたけど