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『サラの鍵』

昨年『黄色い星の子供たち』を観に行った時に『サラの鍵』の予告編が流れたのですが、それから公開までが長かった…。というわけでやっと関西でも上映が始まった今作を観に行ってきました。客席は満席で立ち見までいて、初日とはいえ珍しい盛況ぶりでした。『黄色い星の子供たち』でメインに描かれていた1942年パリのユダヤ人一斉検挙(ヴェルディヴ事件)の朝に端を発する物語と、現代のパリでジャーナリストとして活躍するアメリカ人女性ジュリアの物語が交錯しつつ進んでいきます。今作を観た後にふと『灼熱の魂』のことを思い出したのは、人は歴史やルーツ…“過去”からは逃れられない、という点を描いているところが共通しているな、と感じたからだと思う。ただ、ふたつの作品の鑑賞後の印象はかなり異なるものでした。
『サラの鍵』では、冒頭から過去パートと現代パートが並行して語られていくのですが、その現在と過去の“温度差”が著しく、違和感がある。しかし物語が進むにつれ、現代パートの主人公ジュリアが追うサラにまつわる過去の史実が段々と明らかになるとともに、そうやって解明されていくサラの人生がジュリア自身にも影響を与え、過去と現代パートのふたつの物語が段々と交錯してくところがうまく描写されているな、と思いました。そして、ふたつの時間軸の行き来で、“第2次大戦中のユダヤ人への迫害の歴史”と“サラという個人の歴史”と“現代に生きるジュリアの人生”が響きあうことで、サラ自身は歴史に翻弄され不幸な人生であったかもしれないけれど、彼女の生きた“あかし”は確かに連綿と引き継がれ、枝や葉をのばすように次代にバトンタッチされ、後の時代の世界の誰かの人生の実りの手助けとなることもある、というさまが、しだいに大きく描き出されていくように感じました。この光差すようなラストが『灼熱の魂』における、飲み込みきれない塊がつかえてるような鑑賞後感と異なる理由だと思う。
まったく無関係のはずの1942年のパリのユダヤ人の少女と現代のアメリカ人ジャーナリストの人生は、ある“場”によってつながる。土地や場、建物にも否応なく時間は流れ、その間さまざまな人の運命もその場で生起するわけで。場に降り積もった歴史の一断面を切り開くことになるのがジュリアだった。フランス人ですら忘れかけている70年ほどまえの歴史に切り込んでいく異国人。しかもその歴史の犠牲者のひとりと場でつながり、運命に引き寄せられるようにそのナゾを追跡しはじめる。自分がリフォームして住もうとしてるこの家にかつて住んでいたユダヤ人の少女は生きているのかもしれない…。ナゾの追跡の一方、ジュリアは自分が妊娠したことを知るが、夫は子どもは絶対いらない、と中絶を強いる、かつて運命により殺された幾千の命やかつてこの家に住んでいたユダヤ人姉弟の命と自分に宿った一人の命を否応なく意識する彼女。これらの要素があいまって重層的に物語が進んでいきますよ。
土地に絡みつく歴史は消し去ることはできないし*1、人にまつわりつく歴史も消し去れない。それを知ったうえで、拒絶するか、耳をふさぐか、受け止めるか、行動を決めないといけない、と。人は歴史に学ばねばならないのな、と改めて感じましたが、劇中のフランスの若者が「ヴェルディブ事件、なにそれ?」と言ってて、あぁどこの国も変わらないな、と思いましたよ(自分も歴史は疎いんで耳が痛い感じ…)。
サラが検挙から守るためカギをかけて納戸に閉じ込めた弟の運命はどうなるのか?というミステリ要素もあるサラの幼少パートは、母との別離や監視の警察官と心通わすところ、脱走し水浴びするところ、など画的にもいいし、物語としてもとても惹きつける力があった。現代パートもジュリアを演じたクリスティン・スコット・トーマスは言うに及ばず、ジュリアの夫のサイテー男っぷりとか、娘のゴスにはまってる現代っ子なところとかの細部もよかったですよ(や、しかしあの夫は本当にサイテーだな)。そしてラストの余韻…観終えて、物語の力を感じられたいい映画だな、と思いましたよ。
『サラの鍵』(2010/フランス)監督:ジル・パケ=ブレネール 出演:クリスティン・スコット・トーマスメリュジーヌ・マヤンス、ニエル・アレストラップ、エイダン・クイン、フレデリック・ピエロ
http://www.sara.gaga.ne.jp/
http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD18235/index.html

*1:ヨーロッパのように古い建造物が残っているところは特に意識せざるを得ないだろうな