風が吹くとき『ニーチェの馬』

タル・ベーラ監督作品ということ以外、まったくの予備知識なしに観に行きました。そして、今作に興味があってちょっとでも観にいこうかな、と思っている人には、自分同様まったくの予備知識なしに観に行ってほしいです。
冒頭にニーチェにまつわる真偽不明ながらも有名な挿話が語られる。
1889年トリノニーチェは鞭打たれ疲弊した馬車馬を見つけると、駆け寄り卒倒した。そのまま精神は崩壊し、二度と正気に戻ることはなかった。馬のその後は誰も知らない。
まるで小説のプロローグのようにおかれたこの挿話ののち、働く馬が働いてる様をうつくしいモノクロの映像でひたすらとらえ続ける。この馬がニーチェの馬?いや、関係ないでしょう。「一日目」。時代は19世紀くらい?田舎の質素な家に娘と父の二人暮らししてるさまが描かれる。馬を馬小屋にもどし、馬具をしまい、家に戻った父の着替えを手伝う娘…父はどうやら右手がすこし不自由なようだ。電気も無い時代。油をさすランプはかろうじてあるが、水は井戸から汲みあげ、食事は皮付きのじゃがいもを湯がいたのをゴロンとお皿に盛りつける。一日一個のじゃがいも。それもスプーンもフォークも使わず素手で食べる。現代の自分ならば火傷して触れることすらムリだろうに、彼らは慣れた手つきでそれを食べる。きっと手の皮も厚くなっているんだろう。風が強く吹いている。髪も服もきっと埃だらけだろう。ふたりは世間話のような“潤滑油”のためだけのような意味のない会話はしない。「食事よ」など最低限のコトバしか発しない。そんなふたりの一日のおわり、寝床に入り真っ暗闇のなかで父がコトバを発する「木喰い虫の音が聞こえないな、何年も聞こえてきたのに」。ある予兆。ほのかな予兆。
音楽もあまりない。長まわしで娘が井戸に水を汲みに行く一連、馬の世話をする一連、じゃがいもを湯がいて食べる一連、着替えを手伝う一連をとらえ続ける(本当に長まわしの連続)。これが日常。日を営むこと。日々の生活はこんなことの積み重ねでつまらないといえばつまらない、でもこういうルーティーンな形式があるからこそ、人は正気を保って生きていけるのだと思う。ときに“ハレ”の祭りでガス抜きのようなことが必要であっても、日々の半ば自動的に動いてるようなルーティーンこそが重要、基本、基礎。
そのルーティーンにかすかに不吉な予兆がひそみこんできているさまが描かれる。「二日目」強い風はまったくやむ気配がないどころか、ますます強くなっていくようで。その風のなかを娘は黙々と井戸へと水を汲みに行く。父は着替えて馬を出して仕事をしにいこうとするが、ニーチェの馬のエピソードの馬のようにまったく動こうとしない。叩いてもビクともしない馬に、あきらめて家へ戻る父。町へいったが町は無茶苦茶だった、といい、神の死を語る訪問者がくるが、父娘はそんな抽象的な話にはなんら感慨を述べるでもない。「三日目」「四日目」「五日目」とすすむ。風はますます強くなる。娘は井戸へ水を汲みに行く、馬の様子を見に行くと、エサをまったく食べていない。じゃがいもを湯がいて食べる、風に吹き籠められて家から外を眺めるばかり。流れ者が風のなかをやってきて、井戸の水を勝手に汲む。娘が追い払いにいくと、「一緒にアメリカに行こう」と絡まれる。「アメリカ」は夢の土地なのでしょう、ユートピア、天国のような、自由な土地?娘は「どこへも行かない、ここにいるんだ」と言う。父が出てきて流れ者を追い払う。風はさらに吹く。同じように井戸に水を汲む、裁縫をする、娘が手洗いで服を洗う間に父は片手で家の中にロープを張り娘が干す、ほとんど会話はない「食事よ」じゃがいもゴロン。でも同じような日常にみえて、馬はエサも食べないし、「一日目」にほのかに芽生えた予兆がどんどん膨らむようだ。なにかがルーティーンにヒビを入れて、だんだんそのヒビは亀裂を増して浸食しているようだ。そうして、いつもと同じように水を汲みに行った娘は声を上げる。とうとう、井戸の水が枯れてしまった。水がなければ生きていけない、家を捨て移動しようとするも、結局戻ってくる。湯がけないじゃがいもを、カリカリと齧る。とうとう陽の光もささなくなり、暗闇に閉じ込められる。ランプに油はあるのに、灯りは燈せず、とうとう火種も消えてしまう。暗闇。それでもふたりは叫びだすでもなくひっそりと生きている。どこへも行かず「ここ」で生きていく。
目的があって、とか本当の自分を求めて生きる?いやいや、生まれてきたから、いま生きているから、生きていく…食べる、掃除する、裁縫し…つまり「仕事」をして生き延びていくのが人間なのでしょう。その本質的なありようをじくじくと見せつけられる。そして強い風で砂がまとわりつくような感覚も味わえますよ。まるで阿部公房の『砂の女』の読後感のように。あの小説の優れたところは読んでて砂がまとわりつき、わずかな隙間からも砂が忍び込んでくるような“感覚”を味わわされる点で。そんなふうに風が砂をまきあげ体にまとわりつくように浴びせつけられてるみたいな感覚を味わわされる。うつくしい白黒写真のような画でね。
それにしても、なんかこの感じ結構最近観たよ。…世界のおわりの映画。終末感。『メランコリア』にもどこか通じるケド、トリアーのあの派手さとは似て非なるものだった。あと、この不吉な予兆のギシギシとつまった感じはハネケの『白いリボン』の空気にも似たものを感じた。そして『風の吹くとき』もね。
眠いような、集中するような、耐え難いような、おもしろくてたまらないような、不思議な感じで、154分だけど長く感じなかった。万人にはオススメできないけど、観終えてしばらくしたら「なんだかすごいものを観た」という思いでひたひたと満たされる。そしてすぐ感想を書きたくなった。そんな感じの映画でしたよ。
ニーチェの馬』(2011/ハンガリー=フランス=スイス=ドイツ)監督:タル・ベーラ 出演:ボーク・エリカ、デルジ・ヤーノシュ
http://bitters.co.jp/uma/
http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD19842/index.html

※あのごはんなら不器用な自分でも毎日できる、と強く思った。
※『戦火の馬』の父ちゃんはこの映画の中の馬みたいな種類を買うべきだったと思った。