『ぼくたちのムッシュ・ラザール』

カナダ映画ですがフランス語圏を舞台にしているためフランス語映画でもあります。
モントリオール。雪の朝の校庭が映る*1。学校の一日のはじまり。牛乳当番の少年は一足早く校舎内に入り、牛乳を取り教室へ向かう。教室の扉のガラス戸を覗き込むと、そこに担任の先生の縊首姿が…。そんな凶事のあった教室の壁のペンキ塗り直し、ふたたびクラスに日常を取り戻そうと校長らは試みるも、そのようなクラスに赴任してくれる先生も見つからない。そんな折、「私はアルジェリアからカナダに永住権を取ってやってきたものです。アルジェリアで教師をしておりました、なにかお役に立てないかと」とバシール・ラザールと名乗る中年男性がやってきて校長は彼にクラス担任を任せることにするのだが…
今作を観てまず思い出したのは西川美和監督の『ディア・ドクター』でした。鶴瓶演じる医師は村に唯一の医師として頼られ、またその人柄も好かれており、地域になくてならなぬお医者さんでしたが、彼は医師免許のない男だったのです。彼はペテン師か、はたまた人情深い男なのか…。ムッシュ・ラザールも中盤くらいには教員経験のない男だとわかります。正当に永住権を取った男でもないこともわかる。どうやらアルジェリアで教員をしていた妻とこどもの3人暮らしだったが、妻が著した本によりとあるテログループから狙われはじめ、とうとう家に火を放たれる。妻子を失ったラザール氏はカナダには難民申請をしてやってきていたわけです。難民認定してもらうために模範解答を練習し、また自分の素性を隠して校長に自分を売り込むラザール氏は、鶴瓶演じる医師に対して自分が思った“このひと自分本位なだけなヤツかも”という印象も抱く。けれど、こどもらのことを考えて正しいフランス語を教授しようとし、担任の自死という衝撃的な事実にショックを受けている子どもらにそれを避けるのではなく、受け止めきれなくても、目をそらさずに考える機会を与えるラザール氏は教育者として challengingなことをやってるな、と思う*2
そのうち一人の少年が担任の女性教諭の死になんらかの関係があったかもしれぬ、とわかってくる。またその少年を気にかけ、担任の死を受け止めようとする少女がいる。担任の死は選択的になされたことである。死ぬ時、方法、場所…彼女は最後に自分の教室を選び、件の少年が牛乳当番の朝に死んだ。それはなんらかのメッセージであろうし、生き残る者らの心にひっかき傷のようなものをつけようとしている。その暴力性に気付いた少女は傷ついている。忙しい彼女の母にかわり、ムッシュ・ラザールがいてくれることが、少女を安心させ死の痛みは消え去りはしないけど、生き延びていけるように感じる。
その安心感や日常を取り戻す営みに寄与しているのはムッシュ・ラザールの行う自己流の古風なフランス語の授業なのですな。コトバを読み書き聞き取りコトバから派生する離縁や意味を咀嚼して自分のものにすること。それには口語的な表現ではなく、堅苦しいような理念的なコトバがいいかもね。それらを教授され、少女は自分の思いを作文にして表現できたのかな。
さて、ムッシュ・ラザールはいいヤツだったのか、自己本位なだけのうそつきだったのか。いやいや人は割り切れない。簡単な二元論に落とせない。ムッシュ・ラザールも『ディア・ドクター』の医師も目の前にいる困っている人や弱っている人のそばについていて力にならずにはおれなかった人なのですよな。それは自分も弱い人間だから、つらい目を見てるから、しんどいことあったから。でも、万事理想的に収まるはずもなく。そうそう、最初から疑問だったのですけどね、日本だったら教員免許を採用時に確認するはずなのに、そんなの無いのかよーと思ってたケド。カナダの教育制度は知らないけど、やっぱり社会には制度があって法令があって枠がある。良くも悪くも制度の壁に阻まれるわけで。そんなものよな、それが世の中。ウソには綻びが生じるわけだし、きっといつまでも持ちこたえられはしなかったでしょう。うーん、ますます『ディア・ドクター』だな(でも鶴瓶さんほど底が見えにくい人物像ではなかったけどね、ラザール氏は)
『ぼくたちのムッシュ・ラザール』(2011/カナダ)監督:フィリップ・ファラルドー 出演:モハメッド・フラッグ、ソフィー・ネリッセ、エミリアン・ネロン
http://www.lazhar-movie.com/
http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD21012/index.html

※少女がクロエちゃんを彷彿とさせる美少女でした。
※もうちょっと少年の背景とかを描いてもよかったのでは、と。語りすぎたり説明しすぎないのはいいんだけどね。

*1:といえば、『恐るべき子供たち』思い出すなぁ

*2:普通のオトナもなるべくならやりたくないようなことをやっているように思える