ちょっとズレてる、おかしな、普通の人『横道世之介』

ネタバレて書きます。横道世之介。よこみちよのすけ。苗字4文字+名前4文字。「よ」の音が何気に韻を踏んでいて、「介」って響きがすこし古臭い、ちょっと印象的な名前。本人は(作品の舞台になった87年当時にはなかった言い回しだろうけど)“あんまり空気読めない”タイプ。マイペース、でも体臭が気になるらしく、さりげなく脇チェックをしたり、脇汗をかかないように不自然に腕をあげたりしているんだけど、最初に気になったその仕草も減っていく…東京の生活に慣れてくると、そんなクセもなくなっていたってことで、時間の経過がわかるのだな、自然に。
そんな横道世之介が長崎から上京し、武道館での法政大学の入学式に出て、大学デビューを狙う男子にウザい感じで話しかけられたり、同じく大学デビューを狙う感じのつけまつげが馴染んでない感じの隣の女子に話しかけられ、そのふたりと成り行きでサンバのサークルに加入して合宿にいったり、同郷の友達との縁で出会った正体不明の女と、サークルの先輩に紹介してもらったホテルのボーイのバイト先でたまさか出会ったり、そしたらその人とまた思いがけないところで再会したり、その年上の女にちょっと妄想抱いて、その妄想を聴いてもらう相手を探して、同じ教室にいてたまたま目があった男に話しかけにいって、そいつに友達割引があるからいっしょに教習所通おうと誘われて通い始め、その教習所でであった女の子らとダブルデートすることになったり、そして、そして…と続く、そんな話。つまりひとつのモノゴトやひとつの出会いは次につながる。誰もが、世界と自分の縁の集積や選択や必然や、その連鎖で今に至っている。
それらの縁はずっと続くかもしれないし、かりそめのものだったり、ある時期には必要不可欠な縁だったのに、段々と疎遠になったりするものかもしれない。そうやって疎遠になっても、むかし、ある時期に結んだ縁によって、そののちの人生に影響はあるわけだ。縁も歴史も消せない。消えれば楽なのにな、と思うことも多々あるけど、それはどうしようもない。『世界にひとつのプレイブック』でもジェニファー・ローレンス演じる若く美しいケド痛々しい未亡人ティファニー/職場全員と寝て、クビになったティファニーが言ってたじゃん「過去も含めて今の自分が好きだ」って。そう思わなきゃやってられない、ってところもあるだろうけど。
世之介のことを思い出す“現在”の登場人物たちは、みな笑顔だ。「面白いヤツがいたよな。あいつどうしてるだろ」
吉高さん演じる祥子。吉高さんだから成り立ったよな、あの女子。箱入り娘で天真爛漫。カーテンにくるまって顔をのぞかせる場面のかわいらしさにひえぇ…と目を見張る。ごきげんよう、と独特の手の振り方をする彼女は、ちょっとズレてて、だから世之介を好きになり、世之介も惹かれ、相思相愛になったのかな。クリスマスパーティ、祥子さんの落書きする「ベルサイユのばら」のキャラクター。オスカルもピエールもみんな若くして死んじゃうキャラで、それは世之介と祥子の恋のように、美しくて儚いものたちのすがた。
物語の途中で観ているわたしたちは世之介はこの世にもういないことを知る。その瞬間、それまで描かれていたシーンが、急激に愛おしく切なくたまらないオーラをまとって思い出される。入学式も原宿デートも帰省や海岸デートも…そうして、それから劇中、進んでいくすべての瞬間瞬間がたまらなく切なくて尊く輝くさまがさみしく感じられる。それらの瞬間の輝きや平凡さはかわらぬはずなのに。人はいかに頭で分かっていても、具体的にその死を実感して、生きてた時間の尊さと取り返しのつかないことを思い知る。あぁ、限りある生命なのだから、生きている間に会っておけばよかった、話しておけばよかった、後悔しないように。
最後の秀逸なシークエンスを観て、きっと普通に観たのなら何気ないそのシークエンスにグッときて落涙する。ある一日、カメラのシャッターを切った瞬間の保存された写真写真写真、それを包むのはある時期とてもお互いに必要としていた恋のかけらの記憶。この最後のシークエンスのためには、日常のムダやだらだらした意味のないような時間を観客も世之介や祥子らとともに過ごさなきゃだめだった、だから、やっぱりこの長尺が必要だったろうな、と思ったのでした。
横道世之介』(2013/日本)監督:沖田修一 出演:高良健吾吉高由里子池松壮亮伊藤歩綾野剛、きたろう、余貴美子柄本佑ほか
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未見の人は予告は観ずに本編を観てほしいな