『マーサ、あるいはマーシー・メイ』原題:Martha Marcy May Marlene

マーサは現実社会から逃避した、そして逃避した先からまた逃避した。逃避先で彼女に起こったことはなんだったのか。そして彼女は「原状復帰」できるのだろうか、かつての彼女となにかが決定的に異なる烙印を受けたように見えるのだけど、果たして…
説明セリフなし、きわめて静かな映画。その音の無さ、自然の音、不意に松ぼっくりが夜の屋根に落ちる音、生活音…音の効果がマーサの怯え、不安、焦燥…現実へ溶け込めない違和感をさらに際立たせる。
おそらく両親を失った姉妹。姉ルーシーは大学へ進み、一人暮らし(or寮暮らし?)して、そのまま順調に就職し、休暇をすごす湖のほとりの家まで借りられるような暮らし。一方妹マーサは叔母と一緒に暮らしていたらしいが、大学に進めず、折り合いの悪い叔母の家を飛び出して、とあるコミューンへ入る。
うん、“あるある”だな。反文明的。自然、有機農業、自給自足、贅沢は敵、フリーセックス、音楽、コミューン内での新たな人格のための名づけ、こどもはみなの共有物、コミューン内での自分の役割を付与され役割を見つけること=生きてる意味を付与されること、共依存、監視し合う関係性、そして一人のカリスマ的存在。しかしどうしても「おかね」は必要で、それが限界なんだな。結局たどりつくのは犯罪行為=泥棒で、そんなチンケな泥棒仕事の際に、罪もない人間を残酷にも殺めるとか。自分らを守るためなら殺人も厭わない、詭弁、強弁むりやりな理屈、こじつけでの自分らの行為の正当化。あぁ、これも“あるある”だ。“カルトあるある”…
人を殺める。その凄惨な場面がこびりついて離れなくなったマーサは逃げ出す。カリスマから吹き込まれる正当化の論理も受け入れらない、もう、ここにはいられない。それで逃げ出しても、いったん理想的だと思い、そこにいることが幸せで自分にとって意味があることだと刷り込まれたことは、まさにインプリントされてしまって、ふとした瞬間に顔をのぞかせる。「自分はリーダーで教師だ、ただの人間とはちがう」。他人の目を気にせず裸になるのも気にならない。あのカルトのメンバーはきっと自分を探しに来る、見つけ出す、自分も殺されてしまうかもしれない…
エリザベス・オルセンの存在が際立つおそろしい映画。彼女の物憂げでぼんやりしたあらぬ方をみつめる表情と、彼女の“若い女”独特の肉体性あってこその映画。あの秀逸なラストの残す余韻は近来みた映画のなかでも随一のおそろしいさ。じわじわと残り続ける余韻。ジョン・ホークスのカリスマも凄みがあった(それにしてもガリガリに痩せすぎ)。原題もすごくセンスがいいな。
マーサ、あるいはマーシー・メイ』(2011/アメリカ)監督:ショーン・ダーキン 出演:エリザベス・オルセンジョン・ホークス, サラ・ポールソン、ヒュー・ダンシー
http://video.foxjapan.com/movies/marcymay/
http://eiga.com/movie/77451/