『アデル、ブルーは熱い色』

『マリアンヌの生涯』を読み進める高校生のアデル。劇中ほかにも名前がでてくる『クレーヴの奥方』にしても、『危険な関係』にしても、フランスのクラシックな小説というと、恋に落ちた者らの心理・心情の流れや動きの描写で構成されている恋愛心理小説がとても印象的。この映画もそれらフランスの名作心理小説のように、アデルの心の動きに沿って展開する。
一見してまず気づくのだけど、今作はとても接写が多い。人物のクローズアップの連続。それほどに表情や目の動きなどが微妙な心理を語るわけで。たとえば、アデルは不図すれ違った青い短髪の女性にふと目を奪われ、思わず我を忘れて夢中になる。それ以降、ひとり部屋にいるとき、ふっと行動がとまり一瞬物思いにふけるような場面、アデルの表情をみれば「あぁ、青い髪の彼女を思い出してるんだな」と観ているこちら側に“わかっかちゃう”んですよね。それは、青い髪のエマがアデルと初めて話すゲイバーでの場面でもあきらかで、当然の成り行きとして、アデルのそういう微妙な表情や視線や仕草が醸し出すニュアンスは観客だけじゃなく劇中の人物、殊更エマにも伝わっちゃうわけだ。アデルがエマに恋してる状態にあることは、エマにもすぐ分かる。強がったり、興味はそんなに無いフリしたり…でも言葉はすべて真実を語らない/却って逆のことを言ってしまうこともあることを私たちは知っているし、それらは言葉、表情、仕草すべてが総合して語り、伝わってくる。人の醸し出す空気ってそうやって周囲へなんらかのメッセージを伝えてしまう、そういうことが往々にしてあるものな。まして恋はそんなふうに醸し出してしまいがちなもの。…丹念に/執拗なまでに一人の女性アデルの恋する心を追っているだけなのに、その心情の動きに夢中になっている間に約3時間の上映時間が経ってしまっていた。
ハンサムな男子とつきあっても、なんだか違うみたい、とぼんやり思ってたアデルはエマと出会うことで、心がすべて満たされるような心持になる。彼女とのセックスできっとしあわせでお腹いっぱい、という状態。満たされ、それまでひとりでは得られなかった喜び、異なる次元の人生のよろこびを知った状態。こんな幸福が安定して延々と続くことがありうる?人の心は動くし、安定なんて無くて、愛し合うふたりがくっついて、幸せになりましたとさ、という物語のようなゴールなんて実人生にはない。時間が経つにつれ、最初の出会えた喜びの盛り上がりをすぎて日常になっていくにつれ、アデルは不安を抱く。その不安の種はすこしずつ、それまで気にならなかったような小さなことを肥料にしてどんどん芽をだし成長していく。自分とは縁のないような華やかなエマの交友関係についても、自分はこういう場にいるのは場違い?と目はきょろきょろ、エマの友人たちへ必要以上に気を遣い、料理もこんな、庶民的な<ボロネーゼ>で大丈夫?口に合う?と聞きまくる。…こんな不安の種が育つ、っていうのは同性愛だからとかヘテロとか関係ないと思うな。ヘテロで子を成すから安泰なんてことはなくって、ただ、アデルが自分の魂の片割れに出会ったら、たまさかそれがエマ=女性だった、というだけで。
どうして人はバカなことやってるとわかってやっちゃうのか、その場のノリや流れに流されて、本当に大事にしたいものを傷つけることをしてしまうのか。一生悔いてもどうしようもないようなことしてしまっても、自分にもその理由なんてわからない。説明なんてできない。理屈じゃないから!というヤツだな。滂沱の涙を流し、鼻水を流しながらエマに言い訳しようとするアデル、そしてそんなアデルをどうしても許せないエマの感情の爆発の場面のすごさ、痛々しさ、ふたりの演技のリアリティと存在感。
あくまで説明セリフは一切なし。ただ、朗読する小説や後ろで流れる音楽や映画で結構わかりやくその場その場の感情を表していたりもする。そのセンス。説明もなにもないまま、作品内では何年もの時間が経過し、主人公たちの立場や職業がかわっていくことがちゃんとわかる。最後の余韻といい、フランス映画らしいフランス映画を堪能した気分。昨年の『わたしはロランス』と共通するようなセンスも感じました。それにしてもやっぱりフランス人はタバコ吸いまくり、キスしまくり、抱擁しまくり、個人主義で、髪は真の意味で無造作すぎ、とあらためて思ったのでした。
『アデル、ブルーは熱い色』