『君が生きた証』

“なかったことにしたいこと”は、たくさんある。先日ラジオのpodcastを聴いていたらジェーン・スーさんが「たまにむかしやった失敗を思い出して夜中にうわわぁぁって大声が出ることある」と言ってた。自分はそこまで大声出すことはないけれど、やはり失敗フラッシュバックが起こり、とてもしんどい状態になることがある。そういう機会が歳をとるとともに増えてきたような気がする。うまくいったことや素敵なことは「大切な良い思い出」フォルダに入れておいて、たまにキレイな珠を取り出しては磨くかのように、意識して思い起こすことがある。でも、つらい思いをしたことは「忘れたいフォルダ」に入れておく。そうすると、自己防衛機能を働かせて、忘れよう忘れようとし…大丈夫、忘れてきた、この調子、この調子…。でも、ふと気を抜いた時や、ちょっとイヤなことや失敗が続いたときに「ほら、忘れようとしてるけど昔もあんなことやらかしたじゃないか!」とばかりに昔の大失敗などを思いだし、「うわわぁぁ」となる。こういうフラッシュバックは、失敗に限らず、過去の人間関係にまつわる思い出などについても起こったりする。現在の人間関係での困難にぶつかったとき、やはり過去の苦い思い出がよみがえってくる。過去は変えられないゆえに、決して“なかったこと”にはできない。過去の失敗や苦い経験を教訓として一段高いステージにのぼるような乗り越えられ方/成長ができていないということかな。また、いまだ過去の経験を克服できていない未熟な自分を認めて真正面から対峙することができない、ということなのかもしれない。しかし、これはとても難しいことだと思う。自分はからきしダメです…。
『君が生きた証』の主人公、サムは困難なコンペを勝ち抜き、大学生の息子ジョシュとその喜びを共有したくてランチに呼び出すべく電話をする。ジョシュは授業があるから、と断るのだが、父は息子に授業をバックレろ、という。けれど息子は微笑をうかべながらあいまいに受け答えして電話を切り、大学構内へと歩んで行く。そのジョシュの後姿は、のちのち思い返すことになるでしょう。彼はどんな気持ちで大学へ向かったのか?…その後起こったのは、大学での銃乱射事件。
息子ジョシュの死の悲しみを受け止めきれぬショック状態なのに、マスコミによる執拗な取材によりサムは精神的に追い詰められる。成功したビジネスマンとしてガラス張りの高級住宅で離婚後の優雅な独身生活を送っていたサムは、事件から2年後、湖に浮かぶヨットで湖上生活者となっている。なにもかもを拒絶し、捨て鉢に生きている。映画の冒頭のビシっとしたスーツ姿からはほど遠いヨレヨレの服、無精ひげにボサボサの髪。日雇いのような大工仕事にボロ自転車で二日酔いのまま出勤する。別れた妻が息子の遺品を湖まで持ってくるも、サムは受け取ろうとせず、それらをすべてゴミ箱にいれてしまう。しかしいてもたってもいられなくなり、結局ヨットにすべて積み込む。遺品はほとんどが息子の音楽に関わるものだった。ギターやマーシャルのアンプ、そしてオリジナル楽曲の宅録CD。やがてサムはジョシュの遺した音源を聴きまくり、耳コピし、バーの素人飛び入りデーに参加する。そこでサムの演奏と楽曲に惚れ込んだ若者クエンティン*1がサムとバンドを組みたいと申出るのだが…
以下ネタバレあり。
映画を観ながらすこしずつ感じている違和感。メディアの取材がどこかしら“気の毒な被害者”に対するにしては若干“執拗にすぎる”感じで、サムに集中しているのはなぜなのか。息子を衝撃的事件で喪ったとはいえ、どうしてここまでの激変が父親に生じてしまったのか。なぜ、遺品すら受け取りたくない、というほどに、(自分の仕事の成功を真っ先に祝ってほしいと思うほど愛していた)息子のことを“なかったもの”にしようとしているのか?それらの謎は物語も終盤に近づいたころ、明らかになる。謎が氷解する。その瞬間の衝撃はここ最近観たどの映画よりすごかった。
サムはバンドでやっている楽曲を作ったが亡き息子であることを隠していた。だが、ある日、その作曲者が誰であるか、またその作曲者がなにをしたのか、息子のかつてのガールフレンド*2がバンド仲間に告げに来る。そして、その事実を知って、クエンティンは傷つき、去る。一体彼女は何を告げたのか?…サムは息子の墓を訪れる。その墓はスプレーなどで落書きされまくっている。この時点ではっきりと分かる。サムの息子こそが“虐殺者”だったのだ、と。
サムは必死で“なかったこと”にしたかった。“なかったこと”にできないなら、せめて忘れたかった。だれにも“そのこと”に触れられたくなかったし、自分の心境を一番共有できるであろう元妻すら拒絶し彼女の意見を聞き入れることもなかった。自分に息子は“いなかったこと”にすらしたかったのかもしれない。でもたしかに息子は生きていた。存在していた。その事実は消せない。息子の遺した音楽を聴く、ジョシュが確かに生きていた証。サムはどうしても聴くことをやめられない。なぜならそれは彼のとって特別な存在だった息子の中から湧き上がった衝動により創り出された音楽だから。一度は見失い、“わけがわからない存在”になってしまった息子が、彼の遺した音楽を聴くことで具体性、肉体生、そして精神性をともなって自分の中でよみがえってくる。生きている間にはみえなかったことが感じられるようになってくる。ジョシュがどうしてあんな行動を起こしてしまったのかは、結局はわからないけれど、それはジョシュ自身もはっきりとは説明できなかったんじゃないかな。でも息子が感じていただろう、名状しがた苛立ちやモヤモヤしたやるせない思いが、ジョシュの曲や歌詞を聴きこむうちになんとなくサムにも伝わってくるようになる。そうして息子の生きた証をたどり、突き詰めていくと、ジョシュが殺めてしまったかけがえのない生命の尊さや、被害者の家族らの悲しみの深さが、いまさらながら身に迫るように分かってくる。サムはやっと自分の息子の生、そして死に対峙し、そういう悲劇的事件を起こしてしまった息子の父である自分、ということを受入れる覚悟ができた、ということなのでしょう。だから映画のラストでサムが息子の曲を歌い、ジョシュの歌詞の途切れたところからシームレスに、自分の中から生まれてきた詞で息子に語りかけるように歌うところがとてもとても感動的だった。
サムを演じたビリー・クラダップは、『ビッグ・フィッシュ』の息子役なのですよね。息子と父の物語でわけのわからない父を理解していく息子を演じた彼が今作において息子を理解しようもがく父を演じるのもなんだか興味深かった。チラチラと映る監督ウィリアム・H・メイシーもセリフはないけど何気ない存在感がよかった。彼の初監督作がこういう真摯な映画だとは、なんともうれしい驚きでした。
 被害者はもちろんだけれども、被害者の家族や加害者の家族も深く傷つく。もうちょっとこうしてあげてれば、ああしてあげてれば、こんな悲劇は起きなかったのじゃないか、と自分を責めてしまったりもする。でも過去は変えられない。今も日々起こる加害者と被害者の生じる事件の報道に触れるたびに被害者にも加害者にも家族がいるんだ、という至極あたりまえのことを思い起こす*3。安易に報道だけで“印象批評”して誰かを傷つけたりしないこと。それは心に留めておきたいと思っている。言葉もまた、たやすく人を傷つけるから。
『君が生きた証』http://rudderless-movie.com/index.html

*1:童顔のアントン・イェルチンが演じてます

*2:彼女もまたある意味被害者かもしれない

*3:むかし乃南アサの『風紋』を読んで以来そう思うようになった