自分じゃない人の幸福

自分以外の他人の感覚はとりわけ幼いころや若い頃はよくわかってなくて。人が死んだら悲しい、ということはTVでも言ってるし、親や大人が言ってるので、そうなんだろうな、と思ってはいるけど、身近な人の死を経験しなかったので、よくわからなかった。同級生の親が亡くなったときいても気の毒な、かわいそう、とは思っても実感はなかったような。それは人の幸せな出来事についてもやはりそう。TVや映画や本や一般常識的にはあたまで理解している、けど実感としてはぜーんぜん、わかってなかったなと思う。
歳をとると、まぁ、よくないこともある。若い頃なにかに夢中になってそのことだけであたまがいっぱいで、胸がみたされて、幸せを感じる、っていうような感覚も得ることがそうそう無くなってしまった。音楽にもあんなに夢中だったのに、いまはすっかり「自分がわかいころに夢中になった音楽」で充足してしまってて、若い頃「ああはなりたくない」と思ってた人になっております。
やたら昔ばなしを語りそうになったり、したり顔で人生の先輩的な口調で話しそうになったり。そういう自分を戒めて。
でも、悪いことばかりじゃないなと思う。歳を経て経験が増えただけに、他人のかなしみや喜びがかなり実感をともなってわかるような、そんな気がしている。人の死の喪失感やかなしみもすこしはわかるようになってきた、と思う。そして、自分じゃない人に生じたよろこびも実感をもって祝えるようになってきたような気がする。イキイキと命の炎を燃やし「これから先の未来!」を見てるようなキラキラした目をした新社会人がこの春職場にやってきて、あぁ、このきもちを維持してほしい、つぶしたくないなぁ、と心から思う。人の結婚やもろもろの幸せなしらせを聴くと、うれしくて、このまましあわせが続くようにと祈りたい気持ちになる。なにに祈るでもなく、でも祈るって行為が存在する意味がぼんやりわかるような。
いそがしくてしんどいけど、そんなこと思ったのでちょっと書き留めてみました。おわり。