『桜桃』にまつわるあれこれ

むかし、相原コージの『コージ苑』という漫画が家に転がっていたので、読んだことがあります。4コママンガであったことや相原さんの自虐ネタみたいなものもあったような…といううろ覚え具合。ただ、ひとつだけよく覚えているのが、「だざいはん」というキャラクターです。
実際にオリジナルの太宰治の作品を読む前に「だざいはん」を先に知ったような気がします。
そのため、のちの太宰読書体験に大いなる影響が及ぼされてしまいました。

「だざいはん」には、1〜3コマではなにか困ったことが起こる。でオチの4コマ目で川にざぶざぶ入っていき、後ろから「だざいはん!」入水はあかんで、というように呼びかけられるという定型4コマでした。困ったらすぐ入水自殺(未遂)というのと、「だざいはん」の「はん」が持つ音が絶妙のマッチングで心に刻まれてしまったのです。

関西弁でもとりわけ京都弁のイメージが強い「○○はん」(こんな言い回しは現代では絶滅してるけど)、といった語感には、甘えたような、形でいうとまあるいような、口にいれるとやわらかくさくさくとしていても唾液ですっと溶ける丸ぼうろのような…まあそんなスイーツな感じがあるのですね。

そのイメージが刷り込まれてしまったため、のちに太宰を読むにあたっても「こいつは、女に頼ってばっかりのダメなやつで、周囲に迷惑かけたあげく、自殺に逃げてんだよな、妻子残して」というネガティブイメージ。そのため「かっこつけた文章だよな、ああやっぱり」ってどんだけ上から目線なんだよ、って若気の至りとしかいいようのない印象しかありませんでした。すみません。

でも、今思うに必死なんですよね、太宰治は。
もがきにもがきまくってる。自己顕示欲・いい小説を書きたい・生活もよくしたい・妻子もちゃんと養いたい・あの女と懇ろになりたい・落ち着きたい・向上したいなんとかしたいうぎゃーっていう必死さ。みっともないくらいの。

さて『桜桃』。掌編です。エピグラムで聖書から「われ、山にむかいて、目を挙(あ)ぐ」をあげて、続けて必殺の冒頭一文。「子供より親が大事、と思いたい。」
太宰は本当に冒頭の一文がキラーセンテンスで、読者はここで好き嫌いが分かれそう。
『桜桃』のラスト一文も冒頭一文と同じ文章を置く。冒頭では唐突すぎて最初意味を捉えかねた文章だけど、ラストに同じセンテンスを置くことで、腑に落ちる。

ラストのキラーセンテンスの手前で主人公は桜桃を食べまくるんですよね。食っては種を出す食っては種を出す。ここで初読のとき「あれ」と思ったのです。「桜桃って種あったっけ?」

自分の中で、「桜桃」とはひらがなの「おうとう」で、これは給食でたまに出てくる大好きな「桃がシロップに浸かってあまいやつ」という定義があったのです。「こんだてひょう」に「おうとう」と書いてるとこれが出てきてたよ!

…「おうとう」は「黄桃」と書き、「黄桃缶」とは
南アフリカ産のクリングストンピーチを種と皮をとりシロップづけしたもの」
なのです。

しかし普通、「おうとう」といえば「桜桃」でさくらんぼのことであり、「桜桃忌」といえば太宰の命日だと、『桜桃』を読んで気づいたのでした。

でも、未だに「おうとう」と音で聞くとあのあまいシロップに浸された黄色い桃を思い出すよ。

そして太宰治のことは心の中ではいつも「だざいはん」と読んでいるよ。

こんなところで。

『桜桃』太宰治
http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/308_14910.html

「黄桃缶」
http://item.rakuten.co.jp/kikuya/16003/

『コージ苑』相原コージ
http://www.amazon.co.jp/dp/4091780741/