ゴダール映画祭その1『勝手にしやがれ』

まだ日記に書いてない映画もあるけれど、昨日観た映画のこと書いてみる。元町映画館ではじまった「ゴダール映画祭」、できるだけ行きたいと思ってます。昨日は『勝手にしやがれ』を観ました。ゴダールのこと碌に調べもせずに書きますよ。ゴダール、って名前だけでビビり入るぜ!でもいいんだ、駄感想のうろおぼえ日記だから。事前情報でもプリントがきれい、とのことでしたが、たしかにノイズが無い!きれいなモノクロを堪能できました。
大分以前にヴィデオで観たのでしたが、久しぶりすぎて「こんなだったっけ」というところも結構ありました。特に冒頭付近はあまり覚えてなくて、ジャン=ポール・ベルモンド演じるミシェルの窃盗とか殺人のくだりをすっかり忘れてて我ながら驚きました。これが物語の起点だったんかぁ。陳腐、というか本当につまらないきっかけ。人の死の扱われ方も軽いったら軽いよ。他愛ない小悪党がささいなことで人を殺めて、逃亡するお話。だけどスリルとか、ノワールなんてテイストじゃなくて、あくまでジーン・セバーグ演じるパトリシアとのラブストーリーなんですな。ジーン・セバーグの登場シーンは覚えてた。新聞の売り子姿。ショートカット、ぱっちりした目に顔のパーツの配置がすばらしいルックス。彼女をいかに魅力的に撮るか…それに成功しているからこの映画は間違いなく良いのです。そんな輝きmax状態のジーン・セバーグに拮抗するバランスを取るように、ベルモンドには、軽くて、だらしないけど、でも行動に自信ありげで、パトリシアに“彼の行動に巻き込まれてみるのもいいか”、と思わせる魅力が十分あるから、成立している。
恋に身を任せちゃっていいや、というロマンティックな感情に少し流されているミシェル。この二人の会話!会話!会話!こんなに会話劇だったんだ、と意外でした(すっかり忘れてた)。意味があるような、無いような会話の応酬。観ながらタランティーノを思い出して、あぁ、間違いなく影響与えてるんだろーなー、と根拠無く思う。フォークナーの引用、恋について、嘘の応酬、言葉の応酬を重ねても、お互いの理解が深まってると思えない。表面をなでるような会話は、お互いの距離や感情を測っていて、さぐり探り、恋をしはじめてる。
刑事が追ってくる様は、そんなにスリリングでもないんですよね*1。この映画の主題は恋の成就か破綻しかないものな(刑事の追跡はそのメインストーリーのちょっとした推進力)。でも、この恋はきっと破綻するとわかってる。冒頭の人が死ぬこともあっさり軽く描かれているけど、それと同等の軽さでミシェルの死はあっさり訪れる。恋に感情を支配されたミシェルは、その恋を確かなものにできなかったことで、ふと軽く絶望におそわれ、なんでもいいや、と捨て鉢になる。ボガードを気取って亡くなるラストに至るまで、ミシェルの本心はみえない。表面のさらさらしたところしか見えない、だからパトリシアは通報したような気がする。でも彼女はきっと電話した瞬間に、もう後悔しただろうな。そういうことって、女性には大層よくあると思う(なんかの映画か本かマンガで見たことあるような気がする)。そのときの気持ちの揺らぎにふわぁっと気持ちを持ってかれて、自動的に行動してしまうという。
でも亡くなった彼の死体を見て、少し涙はたまっていても、白々とした顔をして、前を見据えて彼女は生きていく。生き延びる。過去の映画の因習を軽くパロディのようになぞり、喋りたおし、軽々とステップ踏むみたいに走る二人の姿は、公開当時は“あたらしい波”だったんだろうけど、いまや紛うことなき“クラシック”ですね。単純でスピーディなストーリーに纏わりつく会話やカメラワーク、意味ありげな断章のような言葉、軽くて、でも多層的なイメージ。「ゴダール映画祭」ほかの作品どんだけ観られるかな。昔観たときはピンとこなかったものも、今観ると違う気がする。たのしみですよ。

勝手にしやがれ』(1959/フランス)監督:ジャン=リュック・ゴダール 出演:ジャン=ポール・ベルモンドジーン・セバーグ
http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD475/

密告者をゴダール自身がやってるのは、おぼえてた。あと、小説家へのインタビュー場面も。しかしジーン・セバーグがもうキラッキラしてる、それに尽きるなー

*1:死刑台のエレベーター』はこの点ちょっとスリリング