外国かぶれという病『ヤング・ゼネレーション』(午前10時の映画祭)

観てからちょっと経ったけど、なんとなくあっさりと日記に書いてみましょう。午前10時の映画祭で観ました『ヤング・ゼネレーション』。宇多丸氏がこの作品について言及したこともあったなあ、という記憶もあり観てみたかったのでした。
高校を出て、大学にもいかず就職もせずブラブラしてる4人組。主人公デイブは日本人にたとえると、つるの剛士ぽかったです。こいつは病にかかってる。大学受験しようかな、といいつつ、やってるのは自転車に乗り、イタリアの音楽を大音量で聴き、会話の端々にイタリア語の単語を浅い感じで織り込むこと、これは病以外の何ものでもない。でもこの病の既視感はいったい何だろう。おそ松くんのイヤミのフランスかぶれか、はたまた小林克哉のアメリ缶か、コインの冒険か、スピードラーニングか…。“外国”にかぶれる、なんて現代日本社会ではあんまりなさそうですね。外大に通ってる(とくにマイナー言語専攻)人はかぶれてる、といえるかもしれないけれど。
アメリカにおいてはヨーロッパ・コンプレックス、というようなものがありますよね。アメリカのWASPにとっては、ヨーロッパって歴史的長さでは敵いっこないわけで。『ソーシャル・ネットワーク』でもウィンクルボス兄弟がイギリスでボートレースして負けた挙句、貴族にもあんまり構ってもらえなくてちょっと気分落ちてるシーンとかありましたよね。あれはイギリス・コンプレックスの表れとも言えるのかな。でも、同じヨーロッパ圏内でもそういう憬れはあるようで。『勝手にしやがれ』でも、ジャン=ポール・ベルモンドが「ローマ行こうぜ、ローマ」ってジーン・セバーグを誘ってました。ローマに行けばなにもかも解決するような、楽園かのような。ヨーロッパ内でもなんらかのコンプレックスというか憧れがあるんでしょうか。ラテン憧れ?『リトル・ランボーズ』ではイギリス人のフランス憧れがあったし。誰か「あいのり」の相関図みたいのの“国ver”作ってみて、わかりやすく解説してくれたらいいのに。
映画の中で、ちょっと気になる女の子とコンタクトを取れたデイブが、自分をイタリア人と偽るというイタイ展開があるわけですが、その中で主人公は、大きくてあったかい家族、という存在を強調するんです。イタリア、太陽サンサン!陽気なラテン!大家族!…。そんなふうに「隣の芝生は青い」式に憧れ陶酔してる主人公は、手痛い目にあってのぼせ上がった状態から一挙に冷める。この急激な乱高下も若さゆえ、だな。ミサワばりに心の中で思ってました「わかい、わかいねー」
そんな向こう見ずで、客観視なんかしないで、あるひとつのことに夢中になる病は若いからこそかかりやすい。自分の中高生時代なんて頭おかしかったとしか思えないことだらけだ。知人が「夢はかなえるもんじゃない、夢は覚めるためにあるんだ」と言ったことがあるのですが、若い頃は「夢って、かなうもの!」と無根拠に思ってたところがある。なんとかなるかも!という無根拠な自信。好きで好きでたまらない対象に対して、こんなに好きなんだから、きっとその対象からもご褒美があるはず!というようなね。不思議な感覚だな、いまとなっては。
でも、デイブにはちゃんとご褒美があるわけです、映画だから。そのカタルシスは、同じように“外国”じゃなくても“なにか”にかぶれたことがある人間にとっては、たまらないものがある。この映画は特に優れてるとか、ストーリーやカット割りにムダがないことはない、と思う。けれど観るタイミングや、それぞれの経た人生みたようなものによっては、大層響くでしょうな。やっぱりそういう幸運なタイミングでの出会いってのも、運命でしょうか。

『ヤング・ゼネレーション』(1979/アメリカ)監督:ピーター・イエーツ 出演:デニス・クリストファー、ダニエル・スターン、デニス・クエイドジャッキー・アール・ヘイリー
http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=23888