『キラー・インサイド・ミー』『おれの中の殺し屋』

すこし前に観たけれど、映画を観ただけではなんだかよくわからないので、ジム・トンプスンの原作を買って読んでみたのが、『キラー・インサイド・ミー』(本は『おれの中の殺し屋』扶桑社文庫)です。
なにがよくわからないのかというと、映画では主人公のルーのモノローグが始終入るにも関わらず、その行動原理がいまひとつ掴みがたかった。ルーは、もうほかに選択肢ないわー、といって次々(やむなく)殺人を起こすわけですが、彼にとっては明らか過ぎて語るまでも無いらしいその殺人の理由が、自分の心の中には入ってこない。なので、主人公の語りで進行するにもかかわらず、最後までルーに距離を感じ続けてしまう:でも、なぜかルーの論理には惹かれるところがある、という不思議な感じを覚えました。そんなわけで原作を読んだのですが、映画はかなり忠実に原作を辿っているので、映画だけではぼんやりしていた細部がルーの独白でいろいろ詳らかになっていくのですいすい読めるし、あれこれ自分なりに腑に落ちたりしました。でも小説と映画で当然違うところもあるわけで、その差こそが映画化するにあたって出たウィンターボトム色/解釈の部分なのでしょうね。
原作を読んで分かったのは、ルーは狂ってるんだな、ということ。もしかしたら、あなたのお隣にいるかもしれない狂人。彼はいわゆる“一般的な世間/社会の常識”と違う論理を持つんだから、誰かがルーと心底分かり合うことはない。ルーの宇宙に飛び込んできて関わっちゃった者はルーの論理で殺されたりするわけだ。また原作はあくまでルーの手記というカタチを取っている。狂人の一人語りといえば、夢野久作をおもいだす。なにが本当/真実か分からないような。ラストについても部屋の爆発する瞬間まで書いてるお前は一体いつ時点で語ってるわけ?最後に命は助かってるのか?それとも最後の瞬間の前にラストまで妄想して書いてる?もしくは全部主人公の戯言? こういったところが小説の語りの面白いところだな。語りの妙は小説の醍醐味であって、これは映画では再現しがたいところだな、と思う。
原作ではルーは結構行き当たりばったりな行動を取っていて、内心焦ったり、その場の成り行きでルーの論理に従って殺人を犯したりしているわけだけど、映画ではそんな行き当たりばったり要素は見えにくくしているように感じました。ルーは殺人衝動を飼いならした怪物らしく、先を見通して計算して行動しているように見えた。そういう脚本にすることによって、ルーの怪物性をいや増してクライマックスまでその一点で突っ走れる…映画としてストーリーの軸がしっかりする効果があるのかな、と思ったのでした。映画はかなり原作のセリフやシチュエーションに忠実なだけに、原作のどこを抽出してアクセントを置き、どこを落とすかで、こうも印象が変わるのかぁ、とおもしろかった。
映画の画はかなりキレイでした。ケイシー・アフレックのとなりの狂人さん度合いもよかった。彼の声のしゃがれた生気の無い感じもフィットしていた。ジェシカ・アルバの芸術的な胸の隠し方には、一巡して感心しちゃいました。ケイト・ハドソンの殺されっぷりもよかったです。あの殺され方は忘れないような気がするな、いつまでも痙攣してる様といい。しかし、人を殴り殺すっていうのは、怖い。殺す手ごたえを感じたい狂人にはぴったり、かもな。自分を罰するかのように、人を殺すとはこれいかに。

キラー・インサイド・ミー』(2010/アメリカ=スウェーデン=イギリス=カナダ)監督:マイケル・ウィンターボトム 出演:ケイシー・アフレック、ケイト・ハドソンジェシカ・アルバ
http://www.kim-movie.com/
http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD17421/

おれの中の殺し屋 (扶桑社ミステリー)

おれの中の殺し屋 (扶桑社ミステリー)

※小説おもしろかったです。