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共に生きてきた時間/愛『愛、アムール』

カンヌのパルムドール、また、アカデミー賞の外国語映画賞まで取ったという『愛、アムール』を観ましたよ。
ストーリーは極めてシンプル。とあるアパルトマン、鍵かけられた部屋をこじあける消防隊か警察か…部屋に入ると、臭いに鼻を押さえる―その匂いの元たるベッドに横たわる死体が映る。場面がかわる。これから語られるのはこの部屋の主だった夫婦の物語。老夫婦、クラシック音楽をなりわいとしていたらしい、いかにも文化的で贅沢ではないながらも、どこかしら知的で堅実さを漂わせる夫婦。ある夜、ピアノのコンサートへ出かける。奥さんの弟子でいまや国際的に活躍する有望なピアニストのコンサートを堪能し帰宅すると鍵がこわされかけたあとが。いかにも気持ち悪い。夫婦ふたりの静かな生活をおびやかそうとする者が侵入しようとした…いや、ひょっとしたら侵入しようといまも狙っているのかもしれない。そんな不穏な予兆。大家にいって、さっそくにも修理せねばな、といって就寝した翌朝。いつもと同じ朝のはずなのに、その朝を境に生活が全く変わってしまう。妻がバッテリーの切れたロボットのようにぴたりと動かなくなり、や、また再び息を吹き返したときから、全く変わってしまった。前夜の不穏な予兆が現実になったかのように。
一言で言えば「老老介護」の日常を描くわけです。観た人はきっとそれぞれの者の体験したり、近親の者の状況などに照らしてしまうかもしれない、そうやって観る者の深いところに重い“圧”をかけられてるような気持ちになる。
なにがつらいかというと、その“物語”の終わりは「死」をもってしか迎えることがない、と分かっているから。発症から介護、そしてその果てに待ち受ける「死」を最初は遠ざけたいと思っていたのに、進む病状(決して“快方”にむかうことはない。徐々に死に近づくのみ)に介護の大変さは増す、増す、介護が日常となり、負担がいや増すと、それは苦しい行のようにしか感じられぬようになるのでは、と。
震災などにしてもそうだけれど、日常が破壊されるようなディザスターが起こると、とりあえず“生き延びてある”生あることに興奮する。非日常で非現実的ですらある状況を生き延びようと力を合わせねば、と、一種のユートピア的状況になる。でも、ディザスター後の遅々としてすすまぬ復興(快癒)、グラフでいうと右肩下がりのような日々がただ過ぎるのが“日常”になると、それは苦行となる。耐えがたくなりそうである。直視したくなくて、逃避したくなるのではないかと思ってしまう(自分としては)。
しかし劇中、夫は逃避しない。それはともに傍らにいて生きてきた時間が、ふたりを分かつことを考えさせないからか。人生はかくも長く、すばらしい。長らく、ふたりでいること/ふたりで生きることが“日常”だから。娘ですら動揺し、泣くばかりであるような、変わり果てた妻の姿。夫は娘の眼からも妻を守ろうとする*1。そして、昔話をし、歌を歌い、妻の心をたのしませようとする。なにがハッピーエンドなんだろうね、人生の。そんな答え当然あるはずもない。個々に異なるはずだろう。それに、今作は重い苦しいだけではなく、主演ふたりの佇まいの静謐さや美しさゆえ、やはり“映画/フィクション”として感受できるのですよな、観られるものとしてね。しかし、今作のラストまで観たあとは、“あなたの心には何が残りましたか?”と往年の木曜洋画劇場木村奈保子のセリフ思い出しましたよ*2
ハネケの画づくりや長回し、そして空間と音の使い方はすばらしく、それだけにすごい圧を心に受けた。静かさ、生活音、水道の音や皿にあたるナイフ・フォークの音、鳩のバサバサいう羽音。特筆すべきはあのアパルトマン空間の捉え方。そして主演2人の演技はいわずもがな。とりわけエマニュエル・リヴァはすごい…後日アカデミー賞の会場にきていたドレスアップした85歳の女優エマニュエル・リヴァ…劇中のすさまじい彼女とのギャップがすごかったものな。ジャン=ルイ・トランティニャンもすごい。ハネケおなじみの突然の暗転と無音のエンドロールは劇場で体験すべし、と感じました。人生は、かくも長く、素晴らしい、か。
愛、アムール』(2012/フランス・ドイツ・オーストリア監督:ミヒャエル・ハネケ 出演:ジャン=ルイ・トランティニャンイザベル・ユペールアレクサンドル・タロー
http://www.ai-movie.jp/
http://eiga.com/movie/58339/

*1:娘をも守ることを意味もするかもしれないが

*2:木村さんはヴァンダム映画とかでもこのセリフ言ってたわけだけどね