『アメリカン・スナイパー』

緊迫したシークエンスを音楽なしで見せつける予告がガツンときた。公開されてすぐ足を運びました。
俳優として、監督しても長いキャリアを重ねてきたイーストウッドの映画をそんなに観ているわけでもない自分には、彼の作家性うんぬんと尤もらしく批評めいたことを書くことはできない。それでも、これまでに自分が観た範囲内で感じてきたことを思い起こしながら書いてみます。イーストウッド作品の描写について思うのは、的確な言いようではないのを承知でいうとどこか「唯物的」だな、と。そこにある事象をそのまま*1見せていて、ムダにアップにしたりスローにして劇伴ドーンとかけて「ここ感動するとこ」などと押し付けるような演出の偏りを感じない。『グラントリノ』にしても、主人公コワルスキーは自己犠牲を決意して最後の行動を起こすのだ!といくらでも劇的にできるのに、淡々と描写がすすんでいく。観ている自分は画面上に展開される淡々とした描写に、ドラマや意味を付加していきコワルスキーという男の思いや人生に“深さ”をどんどん読み取っていき心動かされていった。
さて『アメリカン・スナイパー』。主人公クリス・カイルは、父に「お前は番犬になるのだ」と教育され、アメリカという国を守るべく身を捧げるためシールズでの特訓に耐え、戦地に派兵され、そこでの過酷な体験に心が壊れ、それでも再生しようとする。その矢先に事故により命を失い、アメリカの英雄として埋葬される。左からも右からも「これはこっちの側の映画だからね!」と思われる要素があるなぁ、と思うのは先に書いたように、ある事象をフラットに見えるように撮ってるからじゃないかと。ひとりの射撃の上手な男が戦場でたくさん人を殺しました。という事実に「人とみればテロリストかを疑い、女子供まで殺すことについて彼は葛藤し、心が壊れ、トラウマを抱えつつ再生しようとしたが、やはり戦争でトラウマを負った者に殺された、戦争の酷さよ」と意味付けできる。「悪人/テロリストから、罪なき民間人や大切な仲間、ひいては自由や民主主義を守るために、やむなくテロリストを殺したカイルは英雄だ。英雄がこんな非情な死を遂げるとは…」と意味付けもできる。人は見たいものを見出したいんだから、両陣営から「この映画うちの陣地に入る映画だよ!」と主張されるのは当然でしょう。無音エンドロールにしても、それはどちらの意味にも捉えうるわけで。
で、「イーストウッドが言いたいことはこうだ。今までの彼の作品の系譜から明らかでしょうに。」と“作者のいいたいこと理論”で映画を読み解くのはある意味正しいけど、それだけが映画の観方じゃないだろうとも思う。監督が意図したとおりに意味を受け取らねばならないとしたら受験用国語の「作者がいいたいことを選択肢から選びなさい」という一個の正解だけを追求することと同じになってしまう。作者/作り手の意図を超え、なんらかの意味をまとってしまうことも創作物にはつきものでしょう。時代やその時々の政治的状況などにも左右されるようなこともあるだろう。
じゃあ自分はどう受け取ったのかというと。決してクリスをヒーローとしては撮っていないな、と思った。マッチョな考え方を肯定的に描いてはいない、と。…しかし、苛烈で悲劇的で激しい戦場のはずなのに*2、あまりに事が淡々と進んでいくように感じ、物足りなく感じたところがあった。それはブラッドリー・クーパーという俳優が主役を演じたことも絡んでるのかも。ブラッドリー・クーパーの役作りはすごくて、体のつくりこみ方や、演技も上手いんだけど、どうにも“優男”な甘さが漂ってしまうように感じ、『ハートロッカー』のジェレミー・レナーのような戦場でアイロニーにがんじがらめになってる男のタフさと繊細さのないまぜになった存在感みたいなものが感じられなかったな。ブラッドリー・クーパーの存在感はタフネスより繊細さのベクトルに向いてるのではないかと(個人の感想です)。実際のカイルの写真をみると、そんな優男感はないのだよな*3
と、なんだかもやもやした感じ。砂嵐のシーンなどの迫力もすばらしく、いい映画だと思うけど、自分にとっては『ハートロッカー』は『ゼロ・ダーク・サーティ』のようなズシンとした重さや尾を引くようなイヤさ*4は残らない映画でした。でも、こうやってモヤモヤを書き起こそうという気持ちにさせる映画ということはやはり残る映画なのか(という無限ループ)
『アメリカン・スナイパー』

ブラックホーク・ダウン [Blu-ray]

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*1:というのは厳密には不可能で、カメラ位置やカット割からも意味は生じる。ただ、あくまで演出過多になってない、きわめてフラットに撮ってるように感じさせると思う

*2:このあたり『ブラックホーク・ダウン』は描写が凄まじかったな

*3:映画は映画、現実とは異なるものですが

*4:悪い意味ではない

自分じゃない人の幸福

自分以外の他人の感覚はとりわけ幼いころや若い頃はよくわかってなくて。人が死んだら悲しい、ということはTVでも言ってるし、親や大人が言ってるので、そうなんだろうな、と思ってはいるけど、身近な人の死を経験しなかったので、よくわからなかった。同級生の親が亡くなったときいても気の毒な、かわいそう、とは思っても実感はなかったような。それは人の幸せな出来事についてもやはりそう。TVや映画や本や一般常識的にはあたまで理解している、けど実感としてはぜーんぜん、わかってなかったなと思う。
歳をとると、まぁ、よくないこともある。若い頃なにかに夢中になってそのことだけであたまがいっぱいで、胸がみたされて、幸せを感じる、っていうような感覚も得ることがそうそう無くなってしまった。音楽にもあんなに夢中だったのに、いまはすっかり「自分がわかいころに夢中になった音楽」で充足してしまってて、若い頃「ああはなりたくない」と思ってた人になっております。
やたら昔ばなしを語りそうになったり、したり顔で人生の先輩的な口調で話しそうになったり。そういう自分を戒めて。
でも、悪いことばかりじゃないなと思う。歳を経て経験が増えただけに、他人のかなしみや喜びがかなり実感をともなってわかるような、そんな気がしている。人の死の喪失感やかなしみもすこしはわかるようになってきた、と思う。そして、自分じゃない人に生じたよろこびも実感をもって祝えるようになってきたような気がする。イキイキと命の炎を燃やし「これから先の未来!」を見てるようなキラキラした目をした新社会人がこの春職場にやってきて、あぁ、このきもちを維持してほしい、つぶしたくないなぁ、と心から思う。人の結婚やもろもろの幸せなしらせを聴くと、うれしくて、このまましあわせが続くようにと祈りたい気持ちになる。なにに祈るでもなく、でも祈るって行為が存在する意味がぼんやりわかるような。
いそがしくてしんどいけど、そんなこと思ったのでちょっと書き留めてみました。おわり。

『フォックスキャッチャー』

去年のうちから楽しみにしていた作品。公開された初週にさっそく劇場に足を運びました。
あらすじ:大富豪のデュポンさん(スティーブ・カレル)が金メダルとれそうなレスリング選手マーク・シュルツ(チャニング・テイタム)をスカウトしてチーム・フォックスキャッチャーとしてやっていこうぜ!となるのだけど、なんだか様子がおかしくなっていくな…そのうちマークの兄デイヴ(マーク・ラファロ)もチーム強化に招かれるのだけど…
ほとんど予告を観ないまま本編に臨みましたがこれが滅法おもしろかった。単純にこのお話どうなるの?という物語の求心力もあるのだけど、キャラクターの魅力に惹き寄せられるという感じ。テイタムはさすが安定の“青二才”っぷり…イイネ!ラファロさんの頭髪から作りこむ*1役作りとにじみ出る人懐こくて器デカそうな人間力あふれる演技もイイネ!ふたりのレスリングでの絡み合いっぷりもイイネ!テイタムがシャドーボクシングならぬシャドーレスリン*2も様になってていい感じいい感じ。だけど、今作の肝はなんといってもスティーブ・カレル演じるデュポンなのです、デュポンを演じるカレルの眼の奥の決して笑ってない、というか何考えてるのかわからん虚ろな表情が素晴らしい、心の中のイイネ!ボタン連打です。時に、おかしな予想もつかない突拍子もないことを言いだすと、キタァ!と嬉しくなるし、一方で空恐ろしくもなる。音楽はほとんどなく、きわめて抑制され寒々しさを感じさせる色彩設計、固定カメラのカチッとした画面、少ないセリフが大変効果的で、そしてどこか不気味で不穏な空気が充満したような息苦しく居心地わるい思いを観る者に抱かせるこういう不穏さ、嫌いじゃない、というか大好き。観ててゾクゾクする。
デュポンとマークは完全に主従の関係にある。金持ちデュポンに見染められてマークはフックアップされた、というわけだから、関係性の優劣がついてて、それゆえマークは常に自分より断然小柄なデュポンのことを見上げてるような感じだし、デュポンはすべての他人を見下げてるような目つきなのだよな。だからご機嫌伺いしているような立場のマーク*3はスポーツマンとしてのプライドやモチベーションを保てなくなってきてドラッグもやるようになるし、本当、精神的にダメになってくる。…いつかデュポンが自分に寄せてる寵愛を失うのじゃないか、この言動まずいかも?と臆病になってる。しかもデュポンは尊敬を金で買ってしまっているタイプの人間だから、彼を飾りたてる○○愛好家や、○○研究家とかいう、セレブリティにありがちな知的な修飾で自分を高く見せようとするその志向はわかるけど、肝心要の彼の“人柄”がわかんないので、思考が読み切れない。理解不能なまま、マークはデュポンの不機嫌な怒りを買ったり、寵愛を兄のほうにむけられたり…なんでオレがこんな目にあわないといけないんだ!とキレるマーク。それに対して、兄のデイブはデュポンが扱いづらいと分かりつつうまいこと対処できる大人力を持ってて…時に友人扱いしたり、対等に接してる(ように)みせたり…しかしそれが最後の悲劇の原因だと思うのだけど。
デュポンは小さい頃から友人すら金で買われたものとして与えられていた。彼をひとりの人間として扱い、接してくれる人が全くいない状態だった*4ので、(初期の)マークのように自分を尊敬してくれる存在が必要だった。自分のおかげで金メダルを獲れた、といってくれる存在。だからデュポンの人生で最高の瞬間は(初期の)マークが国際試合で勝利してデュポンに駆け寄って抱擁した瞬間だったと思う。あの瞬間、デュポンにとっての世界は完璧だったはず。ただ、それがエスカレートして、マークだけではなく世間広くから尊敬されたい、自分をより偉大に見せたい、と欲求し、そのためにマークを利用するだけでなくデイヴの力を取り込もうとしたとき、それまで内包されていたデュポン自身の持つ危うさが一挙に表面化し、バランスが崩れる。デイブの人間力は、デュポンの上を行ってる。ダイブはデュポンを見上げていない。なぜならデイブは自分に誇りをもってるから。愛する妻とこどもがおり、なおかつ、その妻やこどもらから愛されているデイヴ。デュポンは憎くなっていったのではないかな。不安定でフラジャイルなマークこそがデュポンを補完する存在だったということかな。出会いからしばらくのデュポンとマークはまるで相互依存状態で蜜月状態*5。しかしそんな蜜月はいつまでも続かない…。それにしても、デュポンは自分のことしか考えてないし、自分のことしか考えられない人間で、つまりwikiにも書かれてるように精神の病を得ていたともいえるだろうし、結局彼は遅かれ早かれなんらかの事件を起こしただろうね。
今作は実際の事件をベースにしているけど、たくみに映画にしている。ウソをまぜ、より純粋に作劇している。ベネット・ミラーって本当にうまいなぁ、と思いました。スティーヴ・カレルの新境地を見せる演技も本当にすばらしかった。あとチーム・フォックスキャッチャーのパーカーが欲しいっす。
『フォックスキャッチャー』(2014/アメリカ)135分、PG12
監督:ベネット・ミラー
http://www.foxcatcher-movie.jp/

マネーボール [DVD]

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*1:最近ではクリスチャン・ベールが十八番にしてるイメージ…『ザ・ファイター』『アメリカン・ハッスル

*2:一人でイメトレしてる感じ

*3:飛行機の中でデュポンを褒め称えるスピーチを練習させられる場面は最高だったな

*4:それはデュポンの母ですらそうなのだよね

*5:恋愛の初期みたいに

『君が生きた証』

“なかったことにしたいこと”は、たくさんある。先日ラジオのpodcastを聴いていたらジェーン・スーさんが「たまにむかしやった失敗を思い出して夜中にうわわぁぁって大声が出ることある」と言ってた。自分はそこまで大声出すことはないけれど、やはり失敗フラッシュバックが起こり、とてもしんどい状態になることがある。そういう機会が歳をとるとともに増えてきたような気がする。うまくいったことや素敵なことは「大切な良い思い出」フォルダに入れておいて、たまにキレイな珠を取り出しては磨くかのように、意識して思い起こすことがある。でも、つらい思いをしたことは「忘れたいフォルダ」に入れておく。そうすると、自己防衛機能を働かせて、忘れよう忘れようとし…大丈夫、忘れてきた、この調子、この調子…。でも、ふと気を抜いた時や、ちょっとイヤなことや失敗が続いたときに「ほら、忘れようとしてるけど昔もあんなことやらかしたじゃないか!」とばかりに昔の大失敗などを思いだし、「うわわぁぁ」となる。こういうフラッシュバックは、失敗に限らず、過去の人間関係にまつわる思い出などについても起こったりする。現在の人間関係での困難にぶつかったとき、やはり過去の苦い思い出がよみがえってくる。過去は変えられないゆえに、決して“なかったこと”にはできない。過去の失敗や苦い経験を教訓として一段高いステージにのぼるような乗り越えられ方/成長ができていないということかな。また、いまだ過去の経験を克服できていない未熟な自分を認めて真正面から対峙することができない、ということなのかもしれない。しかし、これはとても難しいことだと思う。自分はからきしダメです…。
『君が生きた証』の主人公、サムは困難なコンペを勝ち抜き、大学生の息子ジョシュとその喜びを共有したくてランチに呼び出すべく電話をする。ジョシュは授業があるから、と断るのだが、父は息子に授業をバックレろ、という。けれど息子は微笑をうかべながらあいまいに受け答えして電話を切り、大学構内へと歩んで行く。そのジョシュの後姿は、のちのち思い返すことになるでしょう。彼はどんな気持ちで大学へ向かったのか?…その後起こったのは、大学での銃乱射事件。
息子ジョシュの死の悲しみを受け止めきれぬショック状態なのに、マスコミによる執拗な取材によりサムは精神的に追い詰められる。成功したビジネスマンとしてガラス張りの高級住宅で離婚後の優雅な独身生活を送っていたサムは、事件から2年後、湖に浮かぶヨットで湖上生活者となっている。なにもかもを拒絶し、捨て鉢に生きている。映画の冒頭のビシっとしたスーツ姿からはほど遠いヨレヨレの服、無精ひげにボサボサの髪。日雇いのような大工仕事にボロ自転車で二日酔いのまま出勤する。別れた妻が息子の遺品を湖まで持ってくるも、サムは受け取ろうとせず、それらをすべてゴミ箱にいれてしまう。しかしいてもたってもいられなくなり、結局ヨットにすべて積み込む。遺品はほとんどが息子の音楽に関わるものだった。ギターやマーシャルのアンプ、そしてオリジナル楽曲の宅録CD。やがてサムはジョシュの遺した音源を聴きまくり、耳コピし、バーの素人飛び入りデーに参加する。そこでサムの演奏と楽曲に惚れ込んだ若者クエンティン*1がサムとバンドを組みたいと申出るのだが…
以下ネタバレあり。
映画を観ながらすこしずつ感じている違和感。メディアの取材がどこかしら“気の毒な被害者”に対するにしては若干“執拗にすぎる”感じで、サムに集中しているのはなぜなのか。息子を衝撃的事件で喪ったとはいえ、どうしてここまでの激変が父親に生じてしまったのか。なぜ、遺品すら受け取りたくない、というほどに、(自分の仕事の成功を真っ先に祝ってほしいと思うほど愛していた)息子のことを“なかったもの”にしようとしているのか?それらの謎は物語も終盤に近づいたころ、明らかになる。謎が氷解する。その瞬間の衝撃はここ最近観たどの映画よりすごかった。
サムはバンドでやっている楽曲を作ったが亡き息子であることを隠していた。だが、ある日、その作曲者が誰であるか、またその作曲者がなにをしたのか、息子のかつてのガールフレンド*2がバンド仲間に告げに来る。そして、その事実を知って、クエンティンは傷つき、去る。一体彼女は何を告げたのか?…サムは息子の墓を訪れる。その墓はスプレーなどで落書きされまくっている。この時点ではっきりと分かる。サムの息子こそが“虐殺者”だったのだ、と。
サムは必死で“なかったこと”にしたかった。“なかったこと”にできないなら、せめて忘れたかった。だれにも“そのこと”に触れられたくなかったし、自分の心境を一番共有できるであろう元妻すら拒絶し彼女の意見を聞き入れることもなかった。自分に息子は“いなかったこと”にすらしたかったのかもしれない。でもたしかに息子は生きていた。存在していた。その事実は消せない。息子の遺した音楽を聴く、ジョシュが確かに生きていた証。サムはどうしても聴くことをやめられない。なぜならそれは彼のとって特別な存在だった息子の中から湧き上がった衝動により創り出された音楽だから。一度は見失い、“わけがわからない存在”になってしまった息子が、彼の遺した音楽を聴くことで具体性、肉体生、そして精神性をともなって自分の中でよみがえってくる。生きている間にはみえなかったことが感じられるようになってくる。ジョシュがどうしてあんな行動を起こしてしまったのかは、結局はわからないけれど、それはジョシュ自身もはっきりとは説明できなかったんじゃないかな。でも息子が感じていただろう、名状しがた苛立ちやモヤモヤしたやるせない思いが、ジョシュの曲や歌詞を聴きこむうちになんとなくサムにも伝わってくるようになる。そうして息子の生きた証をたどり、突き詰めていくと、ジョシュが殺めてしまったかけがえのない生命の尊さや、被害者の家族らの悲しみの深さが、いまさらながら身に迫るように分かってくる。サムはやっと自分の息子の生、そして死に対峙し、そういう悲劇的事件を起こしてしまった息子の父である自分、ということを受入れる覚悟ができた、ということなのでしょう。だから映画のラストでサムが息子の曲を歌い、ジョシュの歌詞の途切れたところからシームレスに、自分の中から生まれてきた詞で息子に語りかけるように歌うところがとてもとても感動的だった。
サムを演じたビリー・クラダップは、『ビッグ・フィッシュ』の息子役なのですよね。息子と父の物語でわけのわからない父を理解していく息子を演じた彼が今作において息子を理解しようもがく父を演じるのもなんだか興味深かった。チラチラと映る監督ウィリアム・H・メイシーもセリフはないけど何気ない存在感がよかった。彼の初監督作がこういう真摯な映画だとは、なんともうれしい驚きでした。
 被害者はもちろんだけれども、被害者の家族や加害者の家族も深く傷つく。もうちょっとこうしてあげてれば、ああしてあげてれば、こんな悲劇は起きなかったのじゃないか、と自分を責めてしまったりもする。でも過去は変えられない。今も日々起こる加害者と被害者の生じる事件の報道に触れるたびに被害者にも加害者にも家族がいるんだ、という至極あたりまえのことを思い起こす*3。安易に報道だけで“印象批評”して誰かを傷つけたりしないこと。それは心に留めておきたいと思っている。言葉もまた、たやすく人を傷つけるから。
『君が生きた証』http://rudderless-movie.com/index.html

*1:童顔のアントン・イェルチンが演じてます

*2:彼女もまたある意味被害者かもしれない

*3:むかし乃南アサの『風紋』を読んで以来そう思うようになった

最近観たおもしろダメ男映画(その2)『二重生活』『やさしい人』

『二重生活』は中国のネット掲示板の書き込みにインスパイアされてお話が作られたとのこと。なるほどそういわれれば、四角関係なんて題材は小町案件のような気もする。さて映画です。妻がいるのに若い女子大生とも浮気してるダメな優男。実は別に愛人もいて、しかもその愛人にも子どもまで産ませてる。誰にもなんにもバレずにうまくやってると思っている*1浅はかなダメ男は愛人宅にも定期的に通い、こどもにも「パパ」と呼ばせてる。しかし、愛人は男の妻にママ友として近づいていく、そして愛人はとっくに若い女子大生との浮気も察知し、妻にもその女子大生との逢瀬を目撃させるのであります…。妻と愛人までおりながら、若い女にも手を出す…これ自分にはよくわからないんだよな。だって、時間のやりくりして、バレないようにするにしても妻と愛人だけで十分リスキーだろうに。なぜそこにもうひとり足して3人にする?性欲の問題?同じ女とばかりだと飽きる?うーん、よくわからん。体力有り余ってるのかなんなのか。…と思ってたら文字として書くのも不愉快な某サブカル界隈の人が愛人がたくさんおったとかおらんとかの(一部での)騒動。世の中には一定数そういう輩がいるってことだよな、と。こんな最低ダメ男のために3人の女性が振り回され、うち一人は死んでしまう、その死の謎*2が一つの映画の軸。妻と愛人に追い詰められて、女子大生は高速道路に転落し、車に轢かれてしまう。警察も死因を自動車による轢死とし、女子大生の母は車を運転していた若い男の父*3から高額の慰謝料と高級アパートの部屋を得ることができる。一方、妻も夫に見切りをつけて共同経営の会社から夫を切り離婚、愛人もやっと本妻的地位を得ることができる…あぁ、人ひとりの命の犠牲を経て、事態は打算や金でなんとか丸く収まってしまうのかな、という流れになる。しかし、映画の最後、女子大生の母は娘が亡くなった現場を訪ね、弔う。そうするとふぅっとカメラが移動して、まるでそこにいるかのように亡き女子大生が映る…ふぉぉ、この黒沢清的実存はちょっと怖かったよ。母が娘の死を悼み、娘がいなくなって痛切にさびしい、と思う気持ちがあるかぎり、きっといつか女子大生の真の死の原因を解き明かし、妻や愛人、そしてすべての元凶である男の犯した罪がやがて暴かれるのではないかと予感させるラスト。人が人を思う(愛おしく思う、恋する、執着する)ということは、金や論理でカタがつけられないことなんだな、と感じた。そして人(今作における妻や愛人)の思いが暴発し、タガが外れてしまう、そういう瞬間こそが映画になる、とロウ・イエは思ってるように感じました。女の思いの強さに比して、今作では男の空虚さが際立ったな。男は強い執着もなにもないんだよね、ただ、流されてるだけ。空虚な中心である男の周りにいる女の思いや執着こそが今作ではドラマを創り出していくのです。カメラワークも独特で、自然光のような撮影もうつくしい。夜や雨のシーンも忘れがたい印象を残す作品。ロウ・イエにはこれからも大陸でどんどん作品を撮ってほしいな。
『二重生活』

スプリング・フィーバー [DVD]

スプリング・フィーバー [DVD]

ついで、一瞬味わった恋愛的時間への執着ゆえおかしくなる中年ダメ男が主人公の映画『やさしい人』。『女っ気なし』『遭難者』と同じ監督×主演とあらば、と映画館へ。今作のダメっぷりも最高です。女性を口説くために必死すぎるマクシム。彼女の気を惹こうと必死におもしろダンスする彼を見つめる観客の自分は微苦笑…でも憎めない、どっか可愛らしい。や、でも、それは映画として観てるからです、現実だったら微苦笑だけでしょう、はい。しかし、あっさりとフラれ、若くてぴちぴちした元彼と元鞘におさまる彼女。別れを告げるそっけないメールをみて、荒れに荒れ、クローゼットを破壊し、ベッドにふて寝して声をあげて泣く中年おっさん、そしてその息子をなぐさめにくる老いた父。最高だな、映画として観る分には。で、マクシムは彼女への執着ゆえストーカー的行動に走ってしまうのですが、元彼の写真をインターネットでさがして意味なくやたら拡大していく何気ないシーンに「ギヨーム・ブラック、これやったことあるだろ!」と思いましたね。こういう何気ないどうでもよいような行動の描写にグッときます、なんだかものすごいリアリティでまるで人の部屋を覗いてるような気持ちになる。まったく連絡をとれなくなった彼女と話したくて、犯罪スレスレ…というか犯罪的行動にまでついに至ってしまうマクシム。一度あじわった“自分を恋人として扱ってくれた甘い時間”はもう、戻らないだろうと分かってるだろうに、どうしてそんな犯罪を?…単に別れを告げられただけなら時間がマクシムを癒しただろうけど、別れた理由が元鞘に戻るため、ということだから、心の混乱が激しすぎて、元彼こそがすべての原因だとして攻撃対象としてしまう。本当なら彼女を攻撃すべきかもしれないのにね。人をペドフィリア扱いするような男の元に戻るとは?あんな男最低野郎に違いないと思ってるようで。まぁ、実際のところ彼女は元彼を愛してるわけでも、マクシムを愛してるわけでもないんだよね。マクシムの行動によって彼女はそれを悟り、ちゃんと男に頼らないで次のステップに進もうという意志を目に宿してるから、後味結構さわやかなんだよな。マクシムにとってはまた“女っ気なし”な日常が戻るだけなんだけど、ある意味似たもの親子の恋愛=女性大好きお父さん*4との日常に戻るところの“元サヤ”感ったらないな。すわりがいいっていうか。現代のはずなのに(iPhoneの小物使いもうまい!)どこかなつかしい感レトロ感をたたえた画面も好きです。ダメ男はかわいいなぁ、映画で観る分には。
やさしい人

*1:男の人は本当にバレずにうまくやれると思ってるようだが、あらゆるところに痕跡が残りまくってて、その浮気の痕跡をすばやく察知する女性が多いと思います、本当に

*2:英題は「Mystery」

*3:成長著しい中国で成り上がったらしい会社経営をしている社長

*4:本筋に関係ないけどこのお父さんがマッケンローの昔のテニスの試合をネットで検索して、「今の時代はいいなー」と楽しんで観ているシーンがとてもすき

最近観たおもしろダメ男映画(その1)ダメ男は観覧車での情事を夢見る『愛のタリオ』『薄氷の殺人』

ここのとこ立て続けに観た映画がダメ男映画で、どれもおもしろかった。
まずは『愛のタリオ』。原題は『マダム・ペンドク』で全然タリオ要素はないんですが、こういう大仰で意味不明だけど情欲が絡んでそうな雰囲気をもつ邦題は作品に合ってる。タリオはラテン語で「目には目を歯には歯を」という復讐/制裁をあらわしてるとか。観たらそのとおりのお話で、チョン・ウソン演じる大学教授で小説家が女にだらしない最低ダメ男で、このダメ男のせいで人生狂わされた女がウソンさんに復讐するお話。超速展開ドロドロ愛憎R18のセックスシーンもたっぷり。しかしこれ全然エロくありません。あまりに現実離れしすぎてすべてがファンタジーで、セックスシーンも激しく見せようという意図の先だったアクロバティックさが目立つ。お話の展開は短い文章が連なってページを繰るごとに超展開していくおとぎ話のようで*1、文章と文章の行間を読むような脳の作業は不要なのです。ウソンさんが長年の放蕩がたたって糖尿病で目が見えなくなり、白目剥いてセックスしてる場面を観ても、観てる自分は“無”の心持ち。主人公への共感もないし、身を切るような切実さもないから、なんら心を動かされない。でも、この超展開映画、「ありえねー」とか「わかりやすい伏線があったから、展開はやっぱそうなるんだよなぁ」と突っ込みつつ、つい観ちゃうのです。ウソンさんはセクハラ疑惑で田舎へ逃げても、そこにいる唯一の若い女性にせまられちゃうし、その女を捨てて都会に戻っても大学で女子大生がすり寄って来るし、本を書いたらベストセラーになっちゃうし、お金の運用に失敗したらそれを紹介した友人を責めるし、借金のカタに娘が売られても、うわぁぁ娘よぉぉと言いながらそのお金受け取っちゃって、昔捨てた女に世話してもらって生活していくし。彼はとにかく「こうなってるのってボクのせいじゃないよね、まわりのせいだよね」と思ってて、誰かが何かしてくれるのは当たり前だと思ってる。運命の波にのまれようが翻弄されようが自分でなんとかしようなんて思ってない。自分は特別で、自分は選ばれし者で、そんな特別な自分の人生なのだから、なんとかなる*2し、女も自分のために尽くしてくれて当然と思ってる。観終わった瞬間に「全方位からみて、一部の隙も無く最低だな、こいつ」と自分のなかで結論付けました。しかし、これは極端だとしても、映画においてはこういう甘ったれたダメ男がまわりにドラマを巻き起こす中心点になるからおもしろいんだよね。そして現実にもこういう人(男女問わず)いるよ。関わり合いになりたくはないけれど、いるいる、そして結構グループの人気者、中心的人物だったりするんだよね。根本的にちょっとダメなとこあるな、と思っても天性の甘え上手だったりするのかして、つい周りが甘やかしちゃう→そいつがなんかやらかす→周りに迷惑かけてしまうけど結局周囲がなんとかしてあげる→またなんかやらかす→(延々ループ)。こういうダメな人のダメな部分を拡大して、誇張して作劇した今作はウソンさんの生真面目な演技*3とありえないファンタジー度合がうまく働いてトンデモだけどおもしろ映画になってるけど、これハンパにやったら途中で席を立ちたくなるような出来になっちゃうだろうな、と思いました。

さて、続いて『薄氷の殺人』。今作は「雰囲気映画」だと思いました。殺人のヤバそうな雰囲気、エロティックな雰囲気、未亡人の持つあやうい雰囲気等々…それをぬくぬくと映画館で観ている自分の心身が震えそうなほど寒々しい極寒のロケーションでなつかしい歌謡曲のレトロさも相俟って雰囲気たっぷりに描く。その演出や色彩設計や編集の見せ方のスタイリッシュな感じ*4、これはまさしく雰囲気映画。好き嫌い別れるだろうな、と思いますが自分は時間が経つほどに好きになってきた。もともとグイ・ルンメイが好きなんで彼女が美しくミステリアスに描かれてるだけで自分はOKなのですが、ルンメイに惹かれていく元刑事のダメ男ジャンのダメ男要素こそが本作の核。だから彼を演じたリャオ・ファンも銀熊賞を獲ったのでしょう。彼の刑事としての能力はあるのに、女に関してはグズグズとしただらしなくなってしまう、という「まるでダメ男」要素こそがこの映画のポイントなのです。ダメだと分かりつつ女の魅力につい惹き寄せられ、身を持ち崩し、愛欲に負けて溺れる弱さを持つダメ男あってこそ、ファム・ファタルも魅力を放つのです。

で、上にあげたトンデモダメ男映画『愛のタリオ』と栄えあるベルリンの金熊賞に輝いた『薄氷の殺人』には共通することがあるのです。それはなにかというと、「観覧車でのラブシーン」。かの『タイタニック』のガラス窓に手形バーン!インスパイア系映画をここにきて二本連続で観るとは。あれは「絵になるからやりたぁい」ってなるんだろうな。あと、観覧車に幻想抱きすぎなんだよ、男の人は、と思うほど観覧車=密室でふたりきり→エロ、という図式が短絡的に完成している。そんな脳内妄想を映像化してるのな。そういう意味でもダメ男ファンタジーの象徴ともいえるかもしれませんね、観覧車は。でも『愛のタリオ』で観覧車で情交してるふたりを下からみあげて「おぉ、やっとるやっとる」とニヤニヤうれしそうに見つける地元のおじさんが出てくるあたり、『タリオ』の製作陣がある意味メタっぽい視点持ってますよ、というところを感じさせるような気もしますね。

映画 薄氷の殺人 パンフレット

映画 薄氷の殺人 パンフレット

*1:ある意味この映画、絵本にできそう、監督も寓話性は意識してるようだし

*2:ギャンブルは勝つはずだし、全盲になるなるいわれてもまぁそんなことないだろうし、借金もどうにかなる

*3:でも決して器用でもないし上手くもない

*4:とりわけラストカット

2014年に買ってよかったもの

もう2015年2月も後半なんですけどね、いまさらながら去年買ってよかった、と思うものを記録しておきます。
・fitbit one

【日本正規代理店品】Fitbit One Black ブラック FB103BK-JP

【日本正規代理店品】Fitbit One Black ブラック FB103BK-JP

活動量計というやつです。じつはこれ、一昨年、家人の誕生日プレゼントとして買って贈ったものなのです。使用感を聞いてみるになかなかよさそうなので自分用に買ったのが昨年6月でした。もちろんプレゼントで買うにあたってあれこれ調べてよさそうだな、と思ったのだけど、自分用に購入してみても結構気に入っております。主な機能はリンクをみていただくとよくわかりますが、歩数カウント、登った階数カウント、アクティブな時間カウント、消費カロリー、睡眠管理など。摂取カロリーを記録してダイエットに役立てる、ということもできるのですが、自分はものぐさなので、摂取カロリー記録はしてない。でも、歩数管理、睡眠管理だけでもかなり満足しております。iPhoneにも歩数計機能はあるけど、小さいfitbit oneを身につけるのが断然ラク。寝るときは睡眠時用のバンドで腕に装着します。お風呂のとき以外は大体身に着けてる感じですね。睡眠パターンも大まかなものだけどわかるのがおもしろい。寝苦しくてあまり眠れなかったな、と思ってても、合間合間に結構眠れてるのがわかって、ちょっと安心したり。予想外に一番役立っているともいえるのが目覚まし機能。設定時間になれば振動で起こしてくれるのです。腕に装着しているのでバイブでちゃんと目覚める。しかも近くで寝ている人も起こさずにすむ。目覚ましはいくつかのパターン(曜日指定も可)が登録できます。…と色々書きましたが、単純に歩数計機能で「あー今日は1万歩超えたなー」というのがたのしい。家人とたまに競争したりします(そういう機能も有)。正月におそろしく歩いてないのも歴然と分かったり。自分は100均で購入したクリップのパーツを組み合わせて(下の写真を参照のこと)服に装着してます。fitbitは腕時計っぽいものやらいろいろ出てるので、いまのがへたったら違う形状のものを買ってもいいかな。活動量計はほかにもいろいろなメーカーから出ているようなので、興味のある方は自分に合いそうなものを探してみては。
※自分用カスタマイズ
・だしポット
iwaki 村上祥子のだしポット K7005D-MU

iwaki 村上祥子のだしポット K7005D-MU

自分は料理は得意ではないのです。で、レシピを探してみて材料一覧に「だし」とあるだけで、「あぁ…面倒…」と一歩引いてしまうところがありました。出汁を取ってはみるものの、薄いんだかなんだかよく分からず、これってこの味であってるの?と味見すればするほどよくわからなくなったり。でも色んなレシピの材料欄には気軽に「だし」と書いていて、それだけでそのレシピをそっと閉じたり…「だし」ハードルみたいなのが存在したのです。そこでこのだしポットを購入してみたら、便利で電子レンジで手軽に出汁が取れるのがうれしい。この出汁を鍋にいれ、塩で味を調えると、これがちゃんとすまし汁にできるレベルです。きちんとした出汁を取るのが当たり前、という方からしたら邪道かもしれぬけど、自分のように不器用なものには助かる!ほかの料理作業をしながら、レンジまかせで出汁が取れるのが便利です。「だし」ハードルが下がりました。
・デカいヴァセリン
ヴァセリン ペトロリュームジェリー(大)368g(並行輸入品)

ヴァセリン ペトロリュームジェリー(大)368g(並行輸入品)

一昨年の冬ははじめて踵がひび割れる経験をして、痛くて大変だったので、この冬は対策を講じようとおもってあれこれ調べてヴァセリンを購入。大ボトルなので遠慮なく体ケアに使ってます。おかげで今年は踵も無事だし、例年粉が吹くほど乾燥する腕や足もそこまで乾燥せずに済んでいる。あと自分は冬は静電気がすごくて金属に触れるのがおそろしいのですが、この冬はまだマシな気がする。ヴァセリンによる保湿が若干効いてるのかも、と勝手に思ってます。
・外付けキーボード
職場のPCはウィンドウズのノート。全身の凝りがひどいのでせめて少しだけでも肩凝りを軽減したく、かつ、今の職場は机が広くて外付けキーボード置けそうだし、ということで買うことにしました。もちろん会社で買ってくれないので自分で買うか…とアマゾンで検索したら600円て、これ、やっすいな。で、これなら失敗してもいいや、と購入。キータッチは結構快適。しかも職場PCはテンキーすらなかったからね*1、便利便利、で、凝りもちょっと軽減されたかな。
ロジクールのステレオスピーカー
LOGICOOL ステレオスピーカー Z120BW

LOGICOOL ステレオスピーカー Z120BW

家で使ってるノートPCに繋いでます。シンプルで使いやすい、音もノートのしょぼしょぼのスピーカーに比べると全然違います。安いし*2お手軽だし有線でOKならばオススメかも。高音質を求める人にはアレでしょうが、自分には十分です。ノートPCでiTunes立ち上げて音楽聴く機会も増えたかな。
・ゴアテックスのスニーカーと防水レインブーツ
雨で水がしみしみになって、靴下がしっとりするのがものすごく嫌いです。そこで昨年デパートのアウトドア/スポーツ的フロアに行って買ってみましたメレルのゴアテックススニーカー*3。これはローカットなのでそれほど激しくない雨のときや、朝は降ってなくても仕事帰りに雨降りにあいそうなときなどに履く。ノースフェイスのはガッツリ雨降りのときに履くように購入。雨でも靴下サラサラは本当に快適。買ってよかったなと。靴は消耗品だからどこまで防水が効くかはわからないけど、とりあえず今は快適。履きつぶしたらまた防水シューズ買おうと思ってる。ゴアテックスを使った靴は最近はカンペールなどからも出てて結構選択肢が広いみたいなので次買うときはあれこれリサーチして買いたいな、とそれが今からたのしみ。
とりあえず思い出せたのはこんな感じ。2015年もこれ買ってよかった、と思うのが既にあるけどそれはまたしばらく使ってみてよかったら来年に書き起こそうかと思ってます。

*1:さすがに不便なので外付けのテンキーを自分で持ち込んで接続してましたけどね

*2:今現在は1,523円です

*3:サイズは上に貼ってあるものより全然デカいやつ履いてます