ワッシュさんの企画に参加します。おっぱい映画ベスト10

お題があるとなんだか考える。ぷかぷかと思い浮かぶ。ワッシュさんの企画に乗っかって、おっぱいが印象的に思い出された映画をつらつらと。
1『さよなら渓谷』
真木よう子のおっぱいです。バストトップは映りませんが、横からのショットで見える横ちちのすごさに、映画観終わってすぐに同行者とあの横ちちについて語った記憶がある。映画の詳細は忘れても、あのショットだけは忘れない。

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2『マーサ、あるいはマーシー・メイ
エリザベス・オルセンのおっぱいです。まったく惜しげもなく脱ぎます。でも、屈んだときにTシャツから垣間見える谷間がすごいんだ。映画自体もおそろしくて大変好きです。3『ジョゼと虎と魚たち
池脇千鶴のおっぱいです。観た当時は衝撃だったな。清純派的なイメージで売り出してた感じはあったが、デビュー時からどこか女優魂感じさせる人だったので今作で脱いだときも意外ではなかったな。でもそのおっぱいがまったくセクシーじゃない、そのことに衝撃をうけたんだった。
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4『ダークナイト ライジング』
アン・ハサウェイではなく、マリオン・コティヤールのおっぱいです。マリコテさんはすごいグラマラスで『君と歩く世界』でもかなり脱いでたけど、それよりはこちらをあげます。バストトップは映ってなかったと思うけど*1、あまりのグラマーっぷりに観終わって「マリコテのおっぱいすごかったねぇ」と話した記憶がある、それくらい印象的。
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5『プリンセス トヨトミ』
綾瀬はるかのおっぱいです。というかこれ、ちゃんと観てないのだけど、公開当時観た人が「綾瀬はるかのおっぱいが見どころだった」と言ってたのでTVでやったときチラ見して、はるかさんが走ってるとき揺れてる胸に「あぁ、これが見どころか、なるほど」と思ったんでした。6『バッファロー’66』
いわずとしれたクリスティーナ・リッチのおっぱい。とにかくかわいい、そして胸でっかいよ*2。ボーリング場でのタップシーンがとりわけ忘れがたい。

7『空気人形』
ペ・ドゥナのおっぱい。朝日をあびる裸のペ・ドゥナの自然光に照らされたうつくしさな。監督がペ・ドゥナを好きで好きでたまらないから、こう撮れたんだろうな。エロくはない。うつくしい。
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8『メビウス
イ・ウヌのおっぱい。自分はしばらく今作の中のお母さんと愛人を演じる女優が同じだって気付かなかったんですが、脱いだときのおっぱいの形がいっしょだったので「あ、これ同じ人が演じてるんだ」と気づきました。どんなに動こうがまったく形の崩れないお椀のかたちのまんまるおっぱい。

9『極道の妻たち
かたせ梨乃のおっぱいです。むかしTVで放映してたけど、いまではこんなの地上波で流すって考えられない。五社英雄監督の作品は子どもの頃にみたらすごいインパクトを残すよな、ということで。
10『八日目の蝉』
今作にバストトップは出てきません。周到にかくされたバストトップ…女優ってそれをそんな死守するもんなのか。うむむ…と思ったある意味おっぱい映画。
以上、思いつくままにあげてみましたが、ふりかえるとバストトップの出ない映画のほうが印象的なんだな、と思った次第です。

*1:うろおぼえ

*2:減乳手術をのちにしたとか?

グザヴィエ・ドラン『Mommy/マミー』を観た

昨年、『トム・アット・ザ・ファーム』を観に行った際に『Mommy』のポスターも展示してあって「早く観たい観たい!」と思って待ち望んだ4月25日、上映初日に映画館へ行きました。
テーマは「愛」と「希望」。主人公たちもそれを口にする。しかし「愛」や「希望」を軽々しく口にして語るには、あまりにも困難な現実が母ダイアン、息子スティーブ、隣人の女性カイラを押しつぶしそうになっているのが、観ていてヒリヒリするほどわかる。1:1の正方形の画面は人物/ポートレイトを切り取るのにすごい効果がある。彼ら三人の濃密な感情のぶつかりあい、愛情、やりきれなさ等々が生々しいほどに伝わる。母へ贈り物をしたのに、それを受け取らないことに、そして母が自分を盗人と疑っていることにスティーブは怒りを爆発させる*1。しかしそれは怒りのようでもあり、愛情の暴発のようでもあるし、悲しさの爆発でもあるようで、人間の複雑な*2感情の表現/演技に圧倒される。そしてスティーブの怒りを一身にうけ、それをなだめようと、いや受け止めようとしている母ダイアンにも圧倒される。感情を爆発させる息子に母は怯える、でも愛おしくてしようがないのも事実。そんな息子に対する複雑な感情、きっと彼女にも説明できない。愛とは説明できない、だから映像で、演技で、音楽で…総合芸術である「映画」で表現しているんだ。
1:1の正方形は狭い。だから観ている自分も濃密な彼らの世界のかなり近いところにいる感じがする。そのアスペクト比が崩れる瞬間がある。一度は曲のイントロを聴いた瞬間「こんな大ネタ…!」と口が空いてしまったけど、映像と曲の相乗効果に目を見開くこととなったoasisの『ワンダーウォール』が使われたシークエンス。ロングボードに乗ってまるで天使の羽を広げるよう音楽を聞きながら幸せそうに腕をひらくスティーブ。彼は母とカイラに見守られて自由に風を切り走る。自分のまえで広い世界がひらけていくような感覚。そうしてスティーブが画面を押し広げる!狡猾といわばそうかもしれない。けれど、もうこの瞬間の爽快さ、気持ちよさがたまらない。
そしてもう一度、1:1アスペクト比が崩れる瞬間がある。ダイアンがスティーブを強制入院させる直前のショートトリップに出かける場面。このシークエンスの美しさと悲しさともう、いろいろの感情がない交ぜになった「説明できない」感じ。とにかく美しい。映画全体に色彩が凄まじく美しいのだけど、このシークエンスは特別だ。あり得ないだろうけど、ありうるかもしれない未来のスティーブ。きらきらと輝くこのシークエンスに続くのは、クリーンに漂白された空間=病院*3からきた看護師たちに拘束されるスティーブだ。このギャップ。
カイラは結局なにに傷ついているのかわからないままだ。おそれく家族関係(夫や娘)がふかく関わっているのだろうが、それは明かされない。スティーブたちとの交流によりすこし「よくなる変化」の予感を感じさせたのに、スティーブの強制入院に加担した罪の意識からか、カイラの状態はふたたび映画冒頭の頃に逆戻りしてしまっている。彼女はふたたび「殻の中」に入ってしまったけれど、ダイアンたちとの交流を経て、「自分はなにがあっても家族を捨てない」という態度を強固に貫こうとする自分をみつける。それはカイラにとって幸せな選択ではないかもしれない、カイラはつぶれてしまうかもしれない、でも彼女はそうするしかないんだ。それが彼女の「愛」。
ダイアンはスティーブを受け入れ切れなかった自分を責めているかのようだ。カイラから言われた言葉*4が彼女を揺さぶる。でも彼女は前をむいている。絶対に負けない。過去はくそったれ、未来だけが前に開けているんだから。希望はある、きっと。ラスト、スティーブが走り出すとき、拘束衣を脱がされた彼は、やっと天使の羽をひろげられる、大きく腕を振り、そして走り出す、きっと希望はある。
本当になんだかうまく説明できない、でもこの映画が本当に好きになってしまった。ドランの今のところ一番の傑作だと思う。どうして25歳でこれが撮れるのか…今作では出演せず、監督に徹しているのに、パンフの表紙や中身もドランだらけなのもしようがないな。それくらいグザヴィエ・ドランという存在自体が魅力的だ。音楽の使い方がこれまでのどの作品も素晴らしいが、今作も本当に本当にすばらしい。クールだし、かっこいいし、的確だ。何度も何度も観たくなる。ファッションも色彩設計も素晴らしい。母ダイアンの服やジャラジャラいっぱいぶらさげたキーホルダーの感じとか…、ダイアンにはこれしかない!というコーディネートっぷり。これらの作法が登場人物すべてに行き届いている。あぁ、とにかくかっこいいんだ、でも、うわべのかっこよさだけじゃないこの魅力はなんなんだ。次は彼が出演してる『エレファント・ソング』が6月公開。早く観たい観たい!

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トム・アット・ザ・ファーム [Blu-ray]

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*1:きっと万引きだろうけどな、と思うけど

*2:それは、まさに言葉ではうまく説明できないようなこと…

*3:ここだけはすこしSF的設定を思う。映画冒頭にあった「とある世界のカナダのおはなし」という若干ディストピア的世界観

*4:「自分は家族を捨てられない」

怪物の助産師『セッション』

今年度アカデミー賞複数ノミネート(助演男優は受賞)したということで話題だった『セッション』観てきました。今作も予告での引きがつよかった。音楽映画、強烈な“しごき”映画、そして、「ラスト9分19秒の衝撃」と宣伝でもうたっていて、こういう惹き文句をみると「ラストで師弟の猛烈なしごきの末に、すごいカタルシスを得られるような演奏があるんだろうな」と予想してしまうだけに、知らずに観るほうが衝撃があってよかろうに、と思ってしまうのだけど、今作はこの宣伝によってもたらされる期待値ハードル上げ行為にもかかわらずその期待を裏切られなかった。
ただ、J.K.シモンズ演じるフレッチャーの行為はまったく“良きもの”としては描かれていない。人を徹底的に精神的に追い詰め、時に理不尽としかいいようのない仕打ちをする。これは人をつぶしかねない行為だ。現に彼の猛烈な特訓のすえなんとか一流のジャズバンドにはいった弟子も鬱で命を絶ってしまったことが描かれている。フレッチャーの教えを受けている最中ではなく、学院を卒業し、何年も経った後での死だからフレッチャーが直接の原因ではないかもしれないけれど、あきらかに一因であるだろう。フレッチャーは容赦ない。人はこの世界に足跡や爪痕をのこすことなく死んでいく。でも傑出した一握りは不世出の才能をたたえられ、語り継がれる伝説となる。フレッチャーはそういう存在を育てたかった。ある種の人にあらざる様な存在…“怪物*1”を産みだす助産師になりたかった。そのために手段は択ばない。自殺した愛弟子も一流にはなったかもしれないけど、“普通の一流どまり”の存在だった。フレッチャーは中に怪物がいる厚さ10センチくらいありそうな鋼鉄の繭を羽化させたかった。繭を育て、中から怪物を取り出したかった。しかし、そんな繭破れるはずもないわけで。…だけど、観客はこの映画のラストで、その鋼鉄の繭を内側から素手で突破し、怪物が羽化する瞬間を目撃することとなる。だから昂る。フレッチャーは学院で生徒に言い続けてた。「Not my tempo!」おれのテンポじゃない!おれの合図で演奏しろ!と。彼の中にある理想形を完成させるような音楽を求めてた。でもアンドリューの演奏はあきらかにフレッチャーのテンポじゃない。もとからある理想形なんてふっとばす次元のテンポ。フレッチャーも聴いたことも体感したこともないテンポが彼を高揚させる。繭はフレッチャーがヒビを入れたけど、自力で羽化した。だからフレッチャーの予想を超えたテンポが彼を驚かせることになるわけで。
この世に怪物を産みだすには、こういう苛烈な体験が必要なこともある。それは奇跡的瞬間だ。そういう瞬間をラストまで溜めに溜めて、爆発させて、カタルシスを感じさせる映画はすごいと思った。映画だからこういことを描ける。しかし、善悪でいえば、これは決して「肯定できる善」ではないと思う。善悪を超えて圧倒的なものを見せられると、それはもうしようがないな、と思わせられてしまうわけで、それは映画のもつ力だな、と。アンドリューも人としてはダメな奴だよ。いとこが大学フットボールで活躍したと聞かされても「三流大学だろ」とけなし、成功に足手まといだ、とガールフレンドをこっぴどく傷つける高慢でうぬぼれやで勘違い野郎だ。でも、アンドリューが音楽に心酔し、音楽だけが彼に生きる理由を感じさせていることに嘘はない。だから彼が音楽に必死でしがみつみ、取組み、フレッチャーというこれまた人としてはダメだが、音楽に関してだけは特異な愛を持っている人間と出会い、曲折を経て、強烈な反発や呼応と葛藤のすえに、ついにはアンドリューはネクストレベルに到達したわけで。誰でもができるわけじゃない、マネするな危険、な行為なんだよこれは。でも人は「普通」の自分にはありえないような特異な才能が描かれた特異な映画を、こういう「普通じゃない」人生がうらやましいような、でも自分ではこれは絶対無理だな、と思いつつ観るんだよな。きっとこの先も彼らの道は平坦ではないよ。だって音楽家としては一皮むけたとしても、人間としてどうかは、また別じゃん(優れたミュージシャンが人間的にも素晴らしいかどうかはまた別で、これは数多ある伝説的ミュージシャンの伝説や逸話からも知られるところではないかと)。
種類は全然異なるけど“クライマックスの強烈なカタルシス”という点で、おかま掘られたり、いろいろ大変な思いを経て、ついにはあり得ないような計画を達成し、下水管を通って脱出して「おれは自由だ」と腕を広げるあの映画を思い起こしたりもしました。自分の実人生では一生得られることがないような高揚感を得られるような映画=フィクションの力って、やっぱりすごいな。
『セッション』(2014アメリカ)
http://session.gaga.ne.jp/

セッション [国内盤HQCD仕様]

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ショーシャンクの空に [Blu-ray]

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*1:ありもしない幻獣のユニコーンやツチノコを探し求めてるようなレベルかも

『アメリカン・スナイパー』

緊迫したシークエンスを音楽なしで見せつける予告がガツンときた。公開されてすぐ足を運びました。
俳優として、監督しても長いキャリアを重ねてきたイーストウッドの映画をそんなに観ているわけでもない自分には、彼の作家性うんぬんと尤もらしく批評めいたことを書くことはできない。それでも、これまでに自分が観た範囲内で感じてきたことを思い起こしながら書いてみます。イーストウッド作品の描写について思うのは、的確な言いようではないのを承知でいうとどこか「唯物的」だな、と。そこにある事象をそのまま*1見せていて、ムダにアップにしたりスローにして劇伴ドーンとかけて「ここ感動するとこ」などと押し付けるような演出の偏りを感じない。『グラントリノ』にしても、主人公コワルスキーは自己犠牲を決意して最後の行動を起こすのだ!といくらでも劇的にできるのに、淡々と描写がすすんでいく。観ている自分は画面上に展開される淡々とした描写に、ドラマや意味を付加していきコワルスキーという男の思いや人生に“深さ”をどんどん読み取っていき心動かされていった。
さて『アメリカン・スナイパー』。主人公クリス・カイルは、父に「お前は番犬になるのだ」と教育され、アメリカという国を守るべく身を捧げるためシールズでの特訓に耐え、戦地に派兵され、そこでの過酷な体験に心が壊れ、それでも再生しようとする。その矢先に事故により命を失い、アメリカの英雄として埋葬される。左からも右からも「これはこっちの側の映画だからね!」と思われる要素があるなぁ、と思うのは先に書いたように、ある事象をフラットに見えるように撮ってるからじゃないかと。ひとりの射撃の上手な男が戦場でたくさん人を殺しました。という事実に「人とみればテロリストかを疑い、女子供まで殺すことについて彼は葛藤し、心が壊れ、トラウマを抱えつつ再生しようとしたが、やはり戦争でトラウマを負った者に殺された、戦争の酷さよ」と意味付けできる。「悪人/テロリストから、罪なき民間人や大切な仲間、ひいては自由や民主主義を守るために、やむなくテロリストを殺したカイルは英雄だ。英雄がこんな非情な死を遂げるとは…」と意味付けもできる。人は見たいものを見出したいんだから、両陣営から「この映画うちの陣地に入る映画だよ!」と主張されるのは当然でしょう。無音エンドロールにしても、それはどちらの意味にも捉えうるわけで。
で、「イーストウッドが言いたいことはこうだ。今までの彼の作品の系譜から明らかでしょうに。」と“作者のいいたいこと理論”で映画を読み解くのはある意味正しいけど、それだけが映画の観方じゃないだろうとも思う。監督が意図したとおりに意味を受け取らねばならないとしたら受験用国語の「作者がいいたいことを選択肢から選びなさい」という一個の正解だけを追求することと同じになってしまう。作者/作り手の意図を超え、なんらかの意味をまとってしまうことも創作物にはつきものでしょう。時代やその時々の政治的状況などにも左右されるようなこともあるだろう。
じゃあ自分はどう受け取ったのかというと。決してクリスをヒーローとしては撮っていないな、と思った。マッチョな考え方を肯定的に描いてはいない、と。…しかし、苛烈で悲劇的で激しい戦場のはずなのに*2、あまりに事が淡々と進んでいくように感じ、物足りなく感じたところがあった。それはブラッドリー・クーパーという俳優が主役を演じたことも絡んでるのかも。ブラッドリー・クーパーの役作りはすごくて、体のつくりこみ方や、演技も上手いんだけど、どうにも“優男”な甘さが漂ってしまうように感じ、『ハートロッカー』のジェレミー・レナーのような戦場でアイロニーにがんじがらめになってる男のタフさと繊細さのないまぜになった存在感みたいなものが感じられなかったな。ブラッドリー・クーパーの存在感はタフネスより繊細さのベクトルに向いてるのではないかと(個人の感想です)。実際のカイルの写真をみると、そんな優男感はないのだよな*3
と、なんだかもやもやした感じ。砂嵐のシーンなどの迫力もすばらしく、いい映画だと思うけど、自分にとっては『ハートロッカー』は『ゼロ・ダーク・サーティ』のようなズシンとした重さや尾を引くようなイヤさ*4は残らない映画でした。でも、こうやってモヤモヤを書き起こそうという気持ちにさせる映画ということはやはり残る映画なのか(という無限ループ)
『アメリカン・スナイパー』

ブラックホーク・ダウン [Blu-ray]

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*1:というのは厳密には不可能で、カメラ位置やカット割からも意味は生じる。ただ、あくまで演出過多になってない、きわめてフラットに撮ってるように感じさせると思う

*2:このあたり『ブラックホーク・ダウン』は描写が凄まじかったな

*3:映画は映画、現実とは異なるものですが

*4:悪い意味ではない

自分じゃない人の幸福

自分以外の他人の感覚はとりわけ幼いころや若い頃はよくわかってなくて。人が死んだら悲しい、ということはTVでも言ってるし、親や大人が言ってるので、そうなんだろうな、と思ってはいるけど、身近な人の死を経験しなかったので、よくわからなかった。同級生の親が亡くなったときいても気の毒な、かわいそう、とは思っても実感はなかったような。それは人の幸せな出来事についてもやはりそう。TVや映画や本や一般常識的にはあたまで理解している、けど実感としてはぜーんぜん、わかってなかったなと思う。
歳をとると、まぁ、よくないこともある。若い頃なにかに夢中になってそのことだけであたまがいっぱいで、胸がみたされて、幸せを感じる、っていうような感覚も得ることがそうそう無くなってしまった。音楽にもあんなに夢中だったのに、いまはすっかり「自分がわかいころに夢中になった音楽」で充足してしまってて、若い頃「ああはなりたくない」と思ってた人になっております。
やたら昔ばなしを語りそうになったり、したり顔で人生の先輩的な口調で話しそうになったり。そういう自分を戒めて。
でも、悪いことばかりじゃないなと思う。歳を経て経験が増えただけに、他人のかなしみや喜びがかなり実感をともなってわかるような、そんな気がしている。人の死の喪失感やかなしみもすこしはわかるようになってきた、と思う。そして、自分じゃない人に生じたよろこびも実感をもって祝えるようになってきたような気がする。イキイキと命の炎を燃やし「これから先の未来!」を見てるようなキラキラした目をした新社会人がこの春職場にやってきて、あぁ、このきもちを維持してほしい、つぶしたくないなぁ、と心から思う。人の結婚やもろもろの幸せなしらせを聴くと、うれしくて、このまましあわせが続くようにと祈りたい気持ちになる。なにに祈るでもなく、でも祈るって行為が存在する意味がぼんやりわかるような。
いそがしくてしんどいけど、そんなこと思ったのでちょっと書き留めてみました。おわり。

『フォックスキャッチャー』

去年のうちから楽しみにしていた作品。公開された初週にさっそく劇場に足を運びました。
あらすじ:大富豪のデュポンさん(スティーブ・カレル)が金メダルとれそうなレスリング選手マーク・シュルツ(チャニング・テイタム)をスカウトしてチーム・フォックスキャッチャーとしてやっていこうぜ!となるのだけど、なんだか様子がおかしくなっていくな…そのうちマークの兄デイヴ(マーク・ラファロ)もチーム強化に招かれるのだけど…
ほとんど予告を観ないまま本編に臨みましたがこれが滅法おもしろかった。単純にこのお話どうなるの?という物語の求心力もあるのだけど、キャラクターの魅力に惹き寄せられるという感じ。テイタムはさすが安定の“青二才”っぷり…イイネ!ラファロさんの頭髪から作りこむ*1役作りとにじみ出る人懐こくて器デカそうな人間力あふれる演技もイイネ!ふたりのレスリングでの絡み合いっぷりもイイネ!テイタムがシャドーボクシングならぬシャドーレスリン*2も様になってていい感じいい感じ。だけど、今作の肝はなんといってもスティーブ・カレル演じるデュポンなのです、デュポンを演じるカレルの眼の奥の決して笑ってない、というか何考えてるのかわからん虚ろな表情が素晴らしい、心の中のイイネ!ボタン連打です。時に、おかしな予想もつかない突拍子もないことを言いだすと、キタァ!と嬉しくなるし、一方で空恐ろしくもなる。音楽はほとんどなく、きわめて抑制され寒々しさを感じさせる色彩設計、固定カメラのカチッとした画面、少ないセリフが大変効果的で、そしてどこか不気味で不穏な空気が充満したような息苦しく居心地わるい思いを観る者に抱かせるこういう不穏さ、嫌いじゃない、というか大好き。観ててゾクゾクする。
デュポンとマークは完全に主従の関係にある。金持ちデュポンに見染められてマークはフックアップされた、というわけだから、関係性の優劣がついてて、それゆえマークは常に自分より断然小柄なデュポンのことを見上げてるような感じだし、デュポンはすべての他人を見下げてるような目つきなのだよな。だからご機嫌伺いしているような立場のマーク*3はスポーツマンとしてのプライドやモチベーションを保てなくなってきてドラッグもやるようになるし、本当、精神的にダメになってくる。…いつかデュポンが自分に寄せてる寵愛を失うのじゃないか、この言動まずいかも?と臆病になってる。しかもデュポンは尊敬を金で買ってしまっているタイプの人間だから、彼を飾りたてる○○愛好家や、○○研究家とかいう、セレブリティにありがちな知的な修飾で自分を高く見せようとするその志向はわかるけど、肝心要の彼の“人柄”がわかんないので、思考が読み切れない。理解不能なまま、マークはデュポンの不機嫌な怒りを買ったり、寵愛を兄のほうにむけられたり…なんでオレがこんな目にあわないといけないんだ!とキレるマーク。それに対して、兄のデイブはデュポンが扱いづらいと分かりつつうまいこと対処できる大人力を持ってて…時に友人扱いしたり、対等に接してる(ように)みせたり…しかしそれが最後の悲劇の原因だと思うのだけど。
デュポンは小さい頃から友人すら金で買われたものとして与えられていた。彼をひとりの人間として扱い、接してくれる人が全くいない状態だった*4ので、(初期の)マークのように自分を尊敬してくれる存在が必要だった。自分のおかげで金メダルを獲れた、といってくれる存在。だからデュポンの人生で最高の瞬間は(初期の)マークが国際試合で勝利してデュポンに駆け寄って抱擁した瞬間だったと思う。あの瞬間、デュポンにとっての世界は完璧だったはず。ただ、それがエスカレートして、マークだけではなく世間広くから尊敬されたい、自分をより偉大に見せたい、と欲求し、そのためにマークを利用するだけでなくデイヴの力を取り込もうとしたとき、それまで内包されていたデュポン自身の持つ危うさが一挙に表面化し、バランスが崩れる。デイブの人間力は、デュポンの上を行ってる。ダイブはデュポンを見上げていない。なぜならデイブは自分に誇りをもってるから。愛する妻とこどもがおり、なおかつ、その妻やこどもらから愛されているデイヴ。デュポンは憎くなっていったのではないかな。不安定でフラジャイルなマークこそがデュポンを補完する存在だったということかな。出会いからしばらくのデュポンとマークはまるで相互依存状態で蜜月状態*5。しかしそんな蜜月はいつまでも続かない…。それにしても、デュポンは自分のことしか考えてないし、自分のことしか考えられない人間で、つまりwikiにも書かれてるように精神の病を得ていたともいえるだろうし、結局彼は遅かれ早かれなんらかの事件を起こしただろうね。
今作は実際の事件をベースにしているけど、たくみに映画にしている。ウソをまぜ、より純粋に作劇している。ベネット・ミラーって本当にうまいなぁ、と思いました。スティーヴ・カレルの新境地を見せる演技も本当にすばらしかった。あとチーム・フォックスキャッチャーのパーカーが欲しいっす。
『フォックスキャッチャー』(2014/アメリカ)135分、PG12
監督:ベネット・ミラー
http://www.foxcatcher-movie.jp/

マネーボール [DVD]

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*1:最近ではクリスチャン・ベールが十八番にしてるイメージ…『ザ・ファイター』『アメリカン・ハッスル

*2:一人でイメトレしてる感じ

*3:飛行機の中でデュポンを褒め称えるスピーチを練習させられる場面は最高だったな

*4:それはデュポンの母ですらそうなのだよね

*5:恋愛の初期みたいに

『君が生きた証』

“なかったことにしたいこと”は、たくさんある。先日ラジオのpodcastを聴いていたらジェーン・スーさんが「たまにむかしやった失敗を思い出して夜中にうわわぁぁって大声が出ることある」と言ってた。自分はそこまで大声出すことはないけれど、やはり失敗フラッシュバックが起こり、とてもしんどい状態になることがある。そういう機会が歳をとるとともに増えてきたような気がする。うまくいったことや素敵なことは「大切な良い思い出」フォルダに入れておいて、たまにキレイな珠を取り出しては磨くかのように、意識して思い起こすことがある。でも、つらい思いをしたことは「忘れたいフォルダ」に入れておく。そうすると、自己防衛機能を働かせて、忘れよう忘れようとし…大丈夫、忘れてきた、この調子、この調子…。でも、ふと気を抜いた時や、ちょっとイヤなことや失敗が続いたときに「ほら、忘れようとしてるけど昔もあんなことやらかしたじゃないか!」とばかりに昔の大失敗などを思いだし、「うわわぁぁ」となる。こういうフラッシュバックは、失敗に限らず、過去の人間関係にまつわる思い出などについても起こったりする。現在の人間関係での困難にぶつかったとき、やはり過去の苦い思い出がよみがえってくる。過去は変えられないゆえに、決して“なかったこと”にはできない。過去の失敗や苦い経験を教訓として一段高いステージにのぼるような乗り越えられ方/成長ができていないということかな。また、いまだ過去の経験を克服できていない未熟な自分を認めて真正面から対峙することができない、ということなのかもしれない。しかし、これはとても難しいことだと思う。自分はからきしダメです…。
『君が生きた証』の主人公、サムは困難なコンペを勝ち抜き、大学生の息子ジョシュとその喜びを共有したくてランチに呼び出すべく電話をする。ジョシュは授業があるから、と断るのだが、父は息子に授業をバックレろ、という。けれど息子は微笑をうかべながらあいまいに受け答えして電話を切り、大学構内へと歩んで行く。そのジョシュの後姿は、のちのち思い返すことになるでしょう。彼はどんな気持ちで大学へ向かったのか?…その後起こったのは、大学での銃乱射事件。
息子ジョシュの死の悲しみを受け止めきれぬショック状態なのに、マスコミによる執拗な取材によりサムは精神的に追い詰められる。成功したビジネスマンとしてガラス張りの高級住宅で離婚後の優雅な独身生活を送っていたサムは、事件から2年後、湖に浮かぶヨットで湖上生活者となっている。なにもかもを拒絶し、捨て鉢に生きている。映画の冒頭のビシっとしたスーツ姿からはほど遠いヨレヨレの服、無精ひげにボサボサの髪。日雇いのような大工仕事にボロ自転車で二日酔いのまま出勤する。別れた妻が息子の遺品を湖まで持ってくるも、サムは受け取ろうとせず、それらをすべてゴミ箱にいれてしまう。しかしいてもたってもいられなくなり、結局ヨットにすべて積み込む。遺品はほとんどが息子の音楽に関わるものだった。ギターやマーシャルのアンプ、そしてオリジナル楽曲の宅録CD。やがてサムはジョシュの遺した音源を聴きまくり、耳コピし、バーの素人飛び入りデーに参加する。そこでサムの演奏と楽曲に惚れ込んだ若者クエンティン*1がサムとバンドを組みたいと申出るのだが…
以下ネタバレあり。
映画を観ながらすこしずつ感じている違和感。メディアの取材がどこかしら“気の毒な被害者”に対するにしては若干“執拗にすぎる”感じで、サムに集中しているのはなぜなのか。息子を衝撃的事件で喪ったとはいえ、どうしてここまでの激変が父親に生じてしまったのか。なぜ、遺品すら受け取りたくない、というほどに、(自分の仕事の成功を真っ先に祝ってほしいと思うほど愛していた)息子のことを“なかったもの”にしようとしているのか?それらの謎は物語も終盤に近づいたころ、明らかになる。謎が氷解する。その瞬間の衝撃はここ最近観たどの映画よりすごかった。
サムはバンドでやっている楽曲を作ったが亡き息子であることを隠していた。だが、ある日、その作曲者が誰であるか、またその作曲者がなにをしたのか、息子のかつてのガールフレンド*2がバンド仲間に告げに来る。そして、その事実を知って、クエンティンは傷つき、去る。一体彼女は何を告げたのか?…サムは息子の墓を訪れる。その墓はスプレーなどで落書きされまくっている。この時点ではっきりと分かる。サムの息子こそが“虐殺者”だったのだ、と。
サムは必死で“なかったこと”にしたかった。“なかったこと”にできないなら、せめて忘れたかった。だれにも“そのこと”に触れられたくなかったし、自分の心境を一番共有できるであろう元妻すら拒絶し彼女の意見を聞き入れることもなかった。自分に息子は“いなかったこと”にすらしたかったのかもしれない。でもたしかに息子は生きていた。存在していた。その事実は消せない。息子の遺した音楽を聴く、ジョシュが確かに生きていた証。サムはどうしても聴くことをやめられない。なぜならそれは彼のとって特別な存在だった息子の中から湧き上がった衝動により創り出された音楽だから。一度は見失い、“わけがわからない存在”になってしまった息子が、彼の遺した音楽を聴くことで具体性、肉体生、そして精神性をともなって自分の中でよみがえってくる。生きている間にはみえなかったことが感じられるようになってくる。ジョシュがどうしてあんな行動を起こしてしまったのかは、結局はわからないけれど、それはジョシュ自身もはっきりとは説明できなかったんじゃないかな。でも息子が感じていただろう、名状しがた苛立ちやモヤモヤしたやるせない思いが、ジョシュの曲や歌詞を聴きこむうちになんとなくサムにも伝わってくるようになる。そうして息子の生きた証をたどり、突き詰めていくと、ジョシュが殺めてしまったかけがえのない生命の尊さや、被害者の家族らの悲しみの深さが、いまさらながら身に迫るように分かってくる。サムはやっと自分の息子の生、そして死に対峙し、そういう悲劇的事件を起こしてしまった息子の父である自分、ということを受入れる覚悟ができた、ということなのでしょう。だから映画のラストでサムが息子の曲を歌い、ジョシュの歌詞の途切れたところからシームレスに、自分の中から生まれてきた詞で息子に語りかけるように歌うところがとてもとても感動的だった。
サムを演じたビリー・クラダップは、『ビッグ・フィッシュ』の息子役なのですよね。息子と父の物語でわけのわからない父を理解していく息子を演じた彼が今作において息子を理解しようもがく父を演じるのもなんだか興味深かった。チラチラと映る監督ウィリアム・H・メイシーもセリフはないけど何気ない存在感がよかった。彼の初監督作がこういう真摯な映画だとは、なんともうれしい驚きでした。
 被害者はもちろんだけれども、被害者の家族や加害者の家族も深く傷つく。もうちょっとこうしてあげてれば、ああしてあげてれば、こんな悲劇は起きなかったのじゃないか、と自分を責めてしまったりもする。でも過去は変えられない。今も日々起こる加害者と被害者の生じる事件の報道に触れるたびに被害者にも加害者にも家族がいるんだ、という至極あたりまえのことを思い起こす*3。安易に報道だけで“印象批評”して誰かを傷つけたりしないこと。それは心に留めておきたいと思っている。言葉もまた、たやすく人を傷つけるから。
『君が生きた証』http://rudderless-movie.com/index.html

*1:童顔のアントン・イェルチンが演じてます

*2:彼女もまたある意味被害者かもしれない

*3:むかし乃南アサの『風紋』を読んで以来そう思うようになった