『フレンチアルプスで起きたこと』

予告をみて、たいそうおもしろそうだと思って公開週に足を運びました。緊急事態に陥ったとき取る男女の行動の相違*1が夫婦仲に亀裂をもたらすというおはなし。
フレンチアルプスでヴァケーションを過ごそうとやってくる一家。ゲレンデを眺めながらの優雅なランチ、のはずが、人工的に起こす雪崩が予想外に大きかった。「これはプロの仕事だから大丈夫」と人間のシステムや技術の知識がありそれを信頼し、これはちゃんとunder controlなんだから大丈夫なんだという“男”。それに対し、目の前に起こる事象インパクトに突き動かされ衝動的/感情的に行動する“女”。劇中の男=トマスは劇的なことや自然災害はTVや報道の中でしか起こらず、自分たちはそういう例外に陥らないと思ってるのな。でも自然は人間なんかの予想を超えてくるのが常でして。男は「あ、これヤバいかも」と自分の理性の臨界点を超えた瞬間我を忘れて、でもiPhoneだけは忘れずにまっさきに逃げ出す。でも、人は記憶を書き換える(無意識にもね)から、夫は逃げたけど、そんなに早くなかったよ。走ってなかったよ。家族を気遣うためにすぐ様子をみにもどったし。と自分なりストーリーを作ってる。逃げた云々、ということより「まっさきに逃げてしまった自分」という事実を認めない夫を目の当たりにして、不信からだんだん夫に距離を感じる妻。
事実はひとつでもストーリーは人の数だけ生成されるというのはあたりまえのことで。自分は神戸で阪神大震災を経験してるんですが、そのときのことは自分にせよ、親にせよ、経験したすべての人がそれぞれの物語を作ってる。時間が経つと記憶を整理する。また、人に語るうちにその物語はさらに完成されていくのだ。それは起こった事実からそれぞれの人間の眼や経験を経て物語へ生成変化するわけで。その過程で自分の都合良く書き換えたり、より劇的にするために話を盛ったりしてる。もちろんあくまで無意識にね。だから夫にとっては自分が言ってることは全部真実。ボクは、客観的事実を述べているのだよ、という夫。どうも見解に相違があるようだね、なんていう夫。そんな夫にこんな嘘を平然という人だったっけ、とまるで知らない人のように感じはじめる妻。
この夫が、よりによって自分のiPhoneでその一部始終を録画していたのをつきつけられると、これは認めざるを得ない「客観的証拠」だから、申開きはできない立場に追い詰められ、どうすることもできずうわわーんと泣きだすところがおもしろい。理智的であろう、事実は事実として認めるという立場だから、こういう動かぬ客観的証拠をつきつけられると逃げ場がなくなるんだよな。だから妻はこの録画の存在を知ってたのに、あえてしばらく本人につきつけることをしなかった。しかしどうにもこうにも認めない夫に対して妻も残酷になってしまう。その追求を第三者を呼んでいる場面でやるのだよな*2。逃げ場なし!しばらくはなんとか“自白”させようとしてたんだけど、それがかなわぬとなったら、容赦なく追い詰めていく。妻も最初は波風たてまい、と穏便にすませようとしたんだよね。しかし、心に一度芽生えた考えは、それまではスルー出来たようなささいな言動も養分にしてどんどん成長する。「アレもコレもソレも、夫の家族への愛が浅いことの証左じゃないか」と。だから一縷の望み「夫が自分の行動を認め、あやまる」ことに賭けたんだけど、それがまったくかなわぬとなると、妻のガマンの臨界点を超えてしまい、ここまでやっちゃ、だめだろうな、というところまで追い込みをかけてしまう。
さて、最後は和解したみたいな感じ。いや、でも人間には幸か不幸か「記憶」能力があって、これはなかなか厄介なヤツなんだな。しかも「記憶」は時間とともに盛ったり、自分の都合のいいように生成変化していくのだからこのフレンチアルプスでの記憶がどうこの夫婦の中でそれぞれに生成変化していくのか…一度生じた亀裂はそれ以上深くなることはないのか…この夫婦、そして家族に幸あれ。
『フレンチアルプスで起きたこと』

*1:統計データでもこの夫婦のような行動を取るケースが多いとか

*2:この第三者として巻き込まれる側のもらい事故感もおもしろい